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31年目の遭遇

 年明け早々、書評を頼まれたティム・ワイナー著『CIA秘録』(上下2巻。文藝春秋)を読んだ。読み行くうちに、思わず快哉を叫んだのだった。上巻第12章の以下の記述に遭遇したのである。
「それから7年間の辛抱強い計画が、岸を戦犯容疑から首相へと変身さえた。岸は『ニューズウィーク』誌の東京支局長から英語のレッスンを受け、同誌外信部長のハリー・カーンを通してアメリカの政治家の知己を得ることになる。カーンはアレン・ダレスの親友で、後に東京におけるCIAの仲介役を務めた。岸はアメリカ大使館当局者との関係を、珍種のランを育てるように大事に育んだ。」  
 そう、そこに「ハリー・カーン」という名前が記されていたことに、欣喜雀躍したのである。なぜか。話は、31年前に遡る。私は当時、『週刊ポスト』の編集者を務めていたのだが、1978年の新年号から4週間にわたって連載した「戦後史を塗り変える独走スクープ!」と銘打った特集記事を担当したのだ。内容を掻い摘んで言えば、次のようになる。
 朝鮮戦争後の50年代半ば、アイゼンハワー政権下のアメリカは、国務長官ジョン・フォスター・ダレスとCIA長官アレン・ダレスの兄弟主導で対ソ連「冷戦政策」に舵を切り、それまでニューディール派を重用したマッカーサーGHQ司令部の日本政策をも軌道修正させ、日本に「反共・親米派」の保守政治家を誕生させた。そしてその象徴が、A級戦犯容疑で収監された巣鴨プリズンから釈放されて8年後に首相の座にまで上り詰めた岸信介元首相ではなかったのか。さらにその工作に重大な役割を果たしたのが、件のハリー・カーンであったのではないか――。
 ニューヨーク・タイムズ記者のティム・ワイナーは、入手した60年に及ぶCIAの公式記録をはじめ、ホワイトハウス、国務省の封印が解かれた秘密文書を精査し、10人の元CIA長官を含む情報機関と外交当局関係者300人以上とのインタビューを行なったうえで、本書を著した。しかもインタビューに関しては、すべてオンレコである。つまり、本書が紹介するCIAによる秘密工作はすべて「事実」ということだ。私が担当した特集記事の「推測」が、30余年を経て本書によって「事実」であることが裏付けられたのである。  
 連載記事掲載の前年秋、在日米人ジャーナリスト、ジョン・ロバーツ(故人)にハリー・カーンなる人物の存在を教えてもらった(当時は存命)。ちなみに、同氏から「マックレッカー」(猟犬のようにネタを追うジャーナリスト)という言葉も教わった。調査・取材を進めるうちにカーンの全体像が見えてきた。  
 私が調べたハリー・フレドリック・カーンのパーソナル・データは以下のようなものであった。1912年、コロラド州デンバー生まれ。ハーバード大学卒業後の32年、当時、モルガン、メロンなど大財閥と近かったアスクー家が保有していた『ニューズウィーク』に入社。太平洋戦争開戦翌年の42年、同誌の戦争報道部長に就任。戦後の45年に外信部長に就いている。カーンは国務省内の反共グループに人脈を築いたが、その中心がアイゼンハワー政権の国務次官で、日米開戦時の駐日大使だったジョセフ・グルーである。そしてグルーを通じて、当時の国務長官フォスター・ダレスと知己となり、さらには後にCIA長官になるアレン・ダレスを知った。国務長官就任前のジョン・フォスター・ダレスは50年10月、朝鮮戦争勃発直後にピョンヤンを占領した国連軍視察の帰途、日本に立ち寄ったが、同行したカーンのセッティングによって岸と会っている。
 一言で言えば、岸信介は冷戦政策を推進するダレス兄弟のお眼鏡に叶ったのだ。 本書には、以下に紹介する2006年に開示された国務省声明も紹介されている。 「(1958年から68年までの間)アメリカ政府は、日本の政治の方向性に影響を与えようとする4件の秘密計画を承認した。<中略>アイゼンハワー政権は58年5月の衆院選挙の前に、少数の重要な親米保守政治家に対しCIAが一定限度の秘密資金援助と選挙に関するアドバイスを提供することを承認した。援助を受けた日本側の候補者は、これらの援助がアメリカの実業家からの援助だと伝えられた。」
 この声明を紹介したうえで、著者のワイナー記者は、次のように書いている。「CIA、国務省、及び国家安全保障会議関係者と私が行ったインタビューによれば、4件目は岸に対する支援である。」――。第2次岸政権下の58年総選挙で、岸信介元首相がCIAから秘密資金援助を受けたと断じているのだ。同書では、岸の他にも、東条英機内閣の蔵相を務めた岸の盟友、賀屋興宣もまた58年総選挙で国会議員に選出された直前もしくは直後からCIAの協力者であったこと、さらに賀屋は59年2月にワシントン郊外のラングレーにあるCIA本部を訪れ、アレン・ダレスと面会している事実を明らかにしている。それだけではない。岸の弟の佐藤栄作(当時蔵相)が、58年7月25日に在京アメリカ大使館のS・S・カーペンター1等書記官と会談した際、共産主義との闘争を続ける日本の保守勢力に対し、アメリカが資金援助をしてくれないだろうかとの打診をしてきたことを、当時のグラハム・バーンズ国次官補宛のダグラス・マッカーサー駐日大使の公電に添付された「カーペンター覚書」は明かしている。これらの事実は、すべて07年公開の国務省文書に記されているのだ。  
 要は、岸政権が丸ごとアイゼンハワー政権に飼われていたということである。そしてその契機となったのが、8年間、CIA長官の座にあったアレン・ダレスの「手先」(同書の表現によれば、スプーク=スパイ)であったハリー・カーンと岸信介との出会いということになる。  
 さて、因縁話はさらに続く。私が担当した連載記事の掲載からちょうど1年後の79年1月、「ダグラス・グラマン事件」が発覚し、奇しくもハリー・カーンの名前が日米メディアを賑わすこととなった。航空機の対日売り込みに狂奔したグラマン社の秘密代理人として、である。