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安倍首相は「予言の自己表現」を超えられるか

 小泉純一郎元首相は表現力が豊かである。「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』である」は、彼の作品だ。疫病の世界的拡大で、東京五輪・パラリンピックが1年程度延期することになった。1カ月前までは「まさか」だったことが「やっぱり」に変わった。精進を重ねてきたアスリートの心中はいかばかりか。競技者にとって最高の栄誉とされる五輪代表に選ばれ、人生の絶頂期にあった選手が「まさか」の奈落に落とされた。

 日本が不参加だった1980年のモスクワ五輪のマラソン代表だった宗猛・旭化成陸上部総監督は「代表権を得ている選手をどうするかも難しい。例えば、男子マラソンなら代表に決定している大迫傑の日本記録を大幅に上回る選手が出た場合、メンバーを入れ替えないのはどうだろうか。すでに代表に決まった選手が出場できないのはかわいそうだが、伸びてきた選手の芽を摘むのもかわいそうだ。(中略)競技によっては1年後ならばピークを過ぎている選手もいるかもしれない。原則23歳以下しか出場できないサッカー男子のような五輪競技もある」(毎日新聞3月27日付朝刊)と悩ましい胸の内を吐露する。森喜朗・東京五輪組織委員会長はこれを「知ったこっちゃない」と無視する。

 近代五輪になって「延期」は史上初である。古代ギリシャのオリンピック(紀元前8世紀から紀元4世紀までの1200年間)では、1度だけある。ローマ帝国の暴君ネロがその原因を作った。ネロは自身が馬車競争などに出場、落車したのに審判に優勝と判定させるなどして、主催のギリシャ人を怒らせたのだ。コロナウイルスもネロもタチが悪い点でよく似ている。

 五輪の延期は、スポーツ界だけでなく政治、経済、社会生活などに甚大な影響が及ぶ。1年程度と言っても、いつなら開催できるかが見通せない。21年7月23日開会説が取り沙汰されているが、現在、感染が比較的少ないアフリカや南米で爆発的感染が起きれば事情は変わるだろう。細かいことを言えば、競技会場や宿泊施設、ボランティアの確保など難しい調整も待ち受けている。催行の主導権は、国際オリンピック委員会(IOC)や日本政府、東京都ではなく、まだウイルスが握っている。

 メディアやSNSでは、パンデミック(世界的流行)、クラスター(集団感染)、ロックダウン(都市封鎖)、オーバーシュート(爆発的感染)など聞きなれないカタカナ語が飛び交う。コロナ禍の震源地は中国から欧州、そして米国へと変遷した。米国では26日、コロナ感染者数が中国を上回り世界最多となり、翌27日には10万人の大台を突破した。特にニューヨーク州の感染者が突出しており、病床や人工呼吸器など医療機器の不足が深刻になっている。トランプ米大統領はゼネラルモーターズ(GM)に人工呼吸器の製造を急ぐよう命じた。英国では、チャールズ皇太子、ジョンソン首相や保健相の感染が公表された。

 欧米と比較して拡大を抑えてきた日本でも爆発的感染の恐れが出てきた。小池百合子東京都知事は26日夜、都内の新規感染者が急増したことを受け、急きょ記者会見を開き、週末の外出自粛やテレワーク徹底の要請に踏み切った。小池氏の呼びかけに応じ、近隣自治体も東京都への移動自粛を住民に求めた。東京の感染増加幅は専門家想定の約2倍に達している。感染拡大のペースを抑えられなければ、海外で相次いでいる都市封鎖や爆発的感染が現実味を帯びてきた。

 実は、小池氏会見中に「これはヤバイことになった」と勝手に思い込んだ知人がスーパーに日用品の買い出しに行ったところ、同じことを考え付いた人であふれ、スーパーの商品棚が空になっている写真をSNSで送ってきた。トイレットペーパー、ティッシュペーパー買いだめに続く第2波の「津波」で、こういうのを「パニック買い」という。

 「予言の自己実現」という言葉がある。たとえ根拠のない予言、嘘や思い込みであっても、人びとがその予言を信じて行動することによって、結果として予言通りの現実がつくられる現象を指す。例えば、ある銀行が危ないという噂を聞いて、人びとが大挙して預金を下ろす、取り付け騒ぎを起こすことによって本当に銀行が倒産してしまう(1927年の昭和金融恐慌)。そう思わなければ起こらぬことが実現してしまう。この社会現象を米国の社会学者が名付けた。

 ツイッターでは「トイレ紙」や「生理用品」がトレンドワードの上位に位置する。つぶやきを見た人がわれ先にと買いに走る。感染者が拡大した香港やシンガポールのトイレ紙買いだめの影響も少なくない。香港ではトイレ紙の強盗事件まで起きている。その後、買い占めは欧州、米国にも拡散しているから「予言の自己実現」は世界共通現象だ。品薄予想がデマであると分かっている人も「デマの自己実現」に備えて品薄を加速する行列に加わってしまう。結果として騒ぎは制御不能に陥る。

 安倍晋三首相はコロナ禍中で3度の記者会見を行った。2月27日の会見では、小・中・高校の一斉休校要請、3月14日には「五輪は感染拡大を乗り越えて予定通り開催したい」と述べ、28日には「リーマン・ショックを上回るかつてない規模」の緊急経済対策発動を強調した。安倍氏の言葉は「一気呵成に」「間髪入れずに」など紋切り型常套句が多い。政治家は言葉が商売道具である。もっと表現力を磨くべきだろう。安倍氏に比べると、ドイツのメルケル首相が18日テレビで行った国民向けのスピーチに共感が広がっている。

 「オープンな民主主義国家ですから、私たちの下した政治的決定は透明性を持ち、詳しく説明されなければなりません」と前置きしたうえで、メルケル氏は「互いの距離を保ち、握手をせず、それでも人を孤独にさせないよう電話やメールで愛情と友情を示してほしい」と呼び掛けている。それだけでない。「普段、めったに感謝されることがない人にもお礼を言わせてください。スーパーのレジ係や商品棚を補充してくださる方々。この人たちは現在、最も困難な仕事の一つを担っています。仲間である市民のために尽くし、私たちの生活を支えてくれて、ありがとうございます」。医療関係者の奮闘をたたえただけでなく、パニック寸前のスーパーに目を向け、従業員をねぎらっている。

 安倍首相もいずれ、五輪延期に至った経緯を国民に説明しなければならない。肥大化した近年の五輪は運営費が膨れ上がり、大資本に強く依存してきた。今や催行経験のある巨大都市以外では開催が難しい。何年かに1度見舞われるパンデミックにぶつかることもあり、リスクの高いイベントであることも明らかになった。安倍首相は東京大会開催延期の意味を国民の心に響く言葉で説明し、同時に「まさか」に落ち込んだ関係者を励まし、勇気づけることが求められている。

 社会生活から経済にスポットライトを移したい。甚大な被害は計り知れない。五輪特需が先送りとなり、季節は春なのに経済は凍え氷河期に入った。「世界恐慌の再来」は決して大げさな表現ではない。リーマン・ショックと「3・11」が同時にやって来た、という表現はむしろ遠慮がちな言い方に聞こえる。株価の暴落など当たり前で、2020年は間違いなくマイナス成長だろう。

 世界中、多くの小売業やレジャー産業が相次いで休業している。航空機は減便となり、工場は閉鎖された。どの企業も「コロナシフト」対応を急ぎ、従業員には「コロナ解雇」の嵐が吹き荒れる。街には人影が絶え、観光業や飲食店は「コロナ倒産」だ。何でもかんでも「コロナ」が冠せられる。

 為政者は手をこまねいているわけではない。米国では21日まで1週間の失業保険申請件数が前週比11.6倍の328万3000件と急増、リーマン・ショック直後の66万件をはるかに上回った。大統領選を控えたトランプ大統領と米議会は共和、民主両党ともいがみ合うことなく、2兆ドル(約220兆円)の大型景気対策を決めた。国内総生産(GDP)の1割に相当する過去最大の経済対策である。家計への現金給付や企業の給与支払いの肩代わりのほか、売上高の急減や生活の困難に直面する企業や個人へ金を注ぎ込む。

 わが日本も20年度予算を成立させたばかりだが、残っている予備費を全額ぶち込むだけでなく、事業規模にして約60兆円(リーマン・ショック時は56兆8000億円)以上の補正予算を組んで追い打ちをかけるはずだ。自民党有力者の一人は「それ位の規模でやらなければ、これまで営々と築いてきた経済の好循環と株価は一体何だったのかということになる。今や財政規律派も文句は言えない。日本経済がパンクしてしまえば元も子もなくなるから」と、コロナショックに立ち向かう気概を披歴する。安倍首相はすでに国税、地方税の徴収猶予のほか、公共料金の支払い猶予、社会保険料の1年間の納付猶予などを決めている。

 ちょっと視野狭窄のきらいもあるが政治への影響についても言及しなければならない。五輪延期が「安倍4選への道を拓く」という説を紹介する。来年9月の自民党総裁選、10月21日の衆院議員の任期満了の直前に五輪フィーバーで安倍内閣支持率が上昇する可能性が高い。その勢いを使えば、五輪直後に衆院解散総選挙、大勝した勢いで総裁4選もある。任期切れを控える議員は、選挙に弱そうな岸田文雄政調会長は不利で、むしろ地方で人気の高い石破茂元幹事長の方が有利だ。そうなれば、安倍首相としては、大嫌いな石破氏に勝てる候補として自ら乗り出さざるを得ない。五輪のスローガンは「福島復興五輪」から「コロナ克服五輪」にすり替えられる。こういうシミュレーションは今井尚哉補佐官ら「チーム安倍」がフル稼働して行い、首相の言動を決めている。

 21年東京五輪後の衆院解散総選挙もあるが、筆者はむしろ早期解散説を採る。今年9月の内閣改造・自民党役員人事で求心力回復を来たすことができれば、21年初頭解散ではないか。いずれにしても、コロナ危機を乗り切ることが前提となる。

(2020年3月30日)