「私は、財務省を心あるモノ言う犬の集団にしたいと考えています」――。菅義偉政権下の7月9日、当時の杉田和博内閣官房副長官(事務)が主催した各府省庁の事務次官連絡会議に初めて出席した矢野康治財務事務次官は、このように語っていた。
矢野氏は「後藤田五訓」(中曽根康弘政権の後藤田正晴官房長官が内閣官房職員に対して行った訓話)を引き合いに出して、その第3項「勇気をもって意見具申せよ」と、第5項「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」も披瀝していた。永田町と霞が関で大きな波紋を呼んだ寄稿文「財務次官、モノ申す―このままでは国家財政は破綻する」を掲載した『文藝春秋』(11月号)が発売された10月8日の3カ月前のことだ。同誌記事中に「この五訓は吏道(役人道)の基本を見事に示していると思います」と書いているように、かねて厳格な財政再建論者として知られる矢野氏は“確信犯”である。たとえそうだとして、岸田文雄首相周辺の逆鱗に触れたのは記事冒頭の「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて……言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ……」であった。
元来、財政規律派である岸田氏は自民党総裁選において、その持論を封印して現在の危機的情勢には数十兆円規模の大型経済対策が必要であると繰り返し主張した。それを「バラマキ」と断じられたのだ。首相の周りから「矢野に辞表を書かせろ」との声が噴出した。ここで指摘すべきは岸田氏自身の対応である。10日午前のフジテレビ「日曜報道THE PRIME」に出演し、「議論として、色んな考え方、意見は当然あっていい。ただ、いったん方向が決まったら、しっかりと協力してもらわなければならない」と、懐の深さを見せた。まさに「後藤田五訓」を地で行ったのだ。
最近、永田町界隈で「岸田氏は一皮も二皮もむけた」という声をよく聞く。従前の「いい人だが、決断しない人」から確実に脱皮したというのだ。「したたか」になり、揶揄されてきた「お公家さん集団」宏池会・岸田派の領袖が闘うリーダーに変身したのである。岸田内閣の閣僚・副大臣人事と、自民党の新執行部人事を検証する。第一の特色は首相側近グループを含めて高学歴者が極めて多いことだ。東京大学卒業生に言及するのは筆者の本意ではないが、ここは飽くまでもファクト(事実)に徹したい。東大に3回連続挑戦して失敗した、早稲田大学法学部出身の岸田首相を除く20人の閣僚中、再任された茂木敏充外相を含めて6人が東大卒業生である。26人の副大臣のうち東大卒業生は4人であり、内閣全体の21.3%を占める。これに国立の京都大学、大阪大学、九州大学、一橋大学出身者を入れると30%を超える。▶︎
▶︎次は首相官邸。松野博一官房長官以下、国会議員は木原誠二官房副長官(政務)兼首相補佐官、磯碕仁彦官房副長官(政務)、村井英樹首相補佐官の4人。一連の岸田氏の政策立案を担った木原、村井両氏は東大卒・財務省出身である。非国会議員の官邸主要スタッフは、官僚の頂点に立つ元警察庁長官の栗生俊一官房副長官(事務)と閣僚級の元外務事務次官の秋葉剛男国家安全保障局長を始め、内閣危機管理監、内閣情報官、内閣総務官、内閣総務官、そして7人の首相事務秘書官を束ねる元経済産業事務次官の嶋田隆首相政務秘書官など殆どが東大卒業生だ。一方の自民党執行部はどうか。
甘利明幹事長を筆頭に、党7役のうち東大、官僚出身はともにゼロで世襲議員が3人いる。内閣と党は好対照である。このように学歴とキャリアを取り上げるのには、もちろん理由がある。10月8日の首相所信表明演説でもわかるように、岸田政権が傾注するのは「経済安全保障」に関わる政策である。それを象徴する閣僚人事は初入閣の山際大志郎経済財政・再生相と小林鷹之経済安全保障相であり、甘利氏が両氏を強く推した。
政府が来年1月召集の通常国会に提出する「経済安全保障推進法案(仮称)」は、中国リスクを見据えた経済安全保障の観点から日本企業の競争力強化の新戦略構築を企図する。このコンセプトは、昨年6月に甘利氏主導で自民党政務調査会に発足した新国際秩序創造戦略本部(10月12日に経済安全保障対策本部に名称変更)が作成したものだ。小林氏は同本部事務局長であり、山際、木原両氏も発足メンバーである。3人とも東大(院)卒業生だ。自民党総裁選を想起すれば分かるが、岸田氏が下馬評で一番人気だった河野太郎規制改革相(当時)に対し、最終コーナーから馬なりで加速し、大差をつけて勝利したのは、側近グループの高学歴・頭脳集団が早くから主要政策を準備していたからである。成長と分配の両立を図る「新しい日本型の資本主義」構想、新型コロナウイルス対応のための危機管理能力の強化、原発再稼働と核燃料サイクル事業継続を含むエネルギー政策、相手領域内での弾道ミサイルを阻止する能力の保有容認を含む安保政策、財政の単年度主義の弊害是正など、入念な準備なくして「岸田イズム」を打ち出すことはできなかった。
10月19日公示・31日投開票の総選挙が間近に迫った11日公表のNHK世論調査で、岸田内閣支持率は49.1%と予想外に良くなかった。昨年の菅内閣誕生時に比べて13ポイントも低い。それでも自民党は衆院単独過半数、自民、公明両党で安定多数維持をクリアするというのが、現時点の支配的な見方である。どうやら岸田政権は安定低空飛行で推移し、経済界が懸念する「築城10年、落城1日」は回避できそうだ。船出した「岸田丸」はしばらく座礁することはない。