確かに、賛否両論はあった。9月27日に東京・北の丸公園の日本武道館で執り行われた「故・安倍晋三国葬儀」のことである。当日夜のBS- TBSの「報道1930」に出演した歴史ノンフィクション作家、保阪正康氏は「国葬」の問題点として①私物化②反歴史性③総理の業績を挙げて、岸田文雄首相が安倍元首相の葬儀を「国葬」に決定したことを厳しく指弾した。筆者は同氏の批判にいささかの疑問を抱いたが、本稿では言及を控える。
もちろん、理由がある。「ファクト・ファインディングライター(事実を探り出し、それを発信するジャーナリスト)」を自任する筆者は、話題を呼んだ菅義偉前首相の「友人代表」追悼の辞に絞って論考を進めたい。当夜遅く、「国葬儀」に出席した親しい同業者は菅氏の弔辞を聞き、思わず落涙したと告白の電話をしてきた。一方、長い付き合いの在京外国人記者は、同行した日本人カメラマンが涙をぬぐう喪主の安倍昭恵さんを認めてもらい泣きしたのに驚いたと報告してきた。「菅氏弔辞」はそれほど感動的なものだったのか、と問うのだ。安倍氏との出会いと別れを朴訥とした語り口で振り返った菅氏に心が揺さぶられたのか、弔辞を読み終えるや葬儀会場であるはずの武道館は拍手に包まれた。テレビのコメンテーターは「自然発生的な拍手」と述べた。
だが、会場2階の国会議員席から始まった異例の拍手に違和感を覚えた筆者は圧倒的少数派なのか。さて、肝心な「ファクト(事実)」である。筆者がここで指摘するのは、菅氏が弔辞の最後で触れた明治の元勲・山県有朋に関する件である。菅前首相の弔辞全文から当該の箇所を再録する(読売新聞28日付朝刊)。《……衆議院第1会館1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が1冊ありました。岡義武著「山県有朋」です。ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。……》そして山県が詠んだ歌「かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」を2回繰り返し、菅氏は《深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当にありがとうございました。どうか安らかに、お休みください》と締めくくった。▶︎
山県の歌の評価は置くとして、確かに心に響いた追悼の辞である。しかも全体的にセンテンスが短く工夫された文章であり、お別れの挨拶を書きなれた手練れ者の作である。
では、ファクトを掘る筆者が、いったい何を見つけたのか。「読みかけの本が1冊」と記述された箇所だ。衆院第1議員会館1212号自室の机にあったと言うからには、弔辞に耳を傾けていた参列者の殆どが、安倍氏が7月8日の惨劇に遭う最近まで読んで(目を通して)いた本と受け止めたに違いない。正確を期せば、事実関係は次のようなものだ。
先ず、当該の政治学者、岡義武元東京大学教授著『山県有朋-明治日本の象徴』(岩波新書)は60年以上も前の1958年に刊行された(2016年に復刊、19年に文庫化)。次は、安倍氏が「いつ」、「誰に」勧められて同書を手にしたのかである。契機は2014年12月27日に安倍氏の有力財界人支援者として知られた、当時の葛西敬之JR東海名誉会長(5月25日逝去)との東京・虎ノ門のホテルオークラ「山里」での会食だった(同席者は安倍氏の側近1人)。安倍氏が葛西氏に正月休みに読むべき本を推薦して欲しいと頼んだ。同氏は自分が東大在学中に教えを受けた岡教授の名前を挙げ、「総理と同郷の山県有朋について書いている本があります。それを読まれては如何ですか」と答えた。そして安倍氏は翌年初頭までに読破し、2010年代半ば過ぎまで山県有朋研究をしている。天皇制の根幹となる「軍人勅諭」と「教育勅語」を策定、治安維持法の制定、さらに国民皆兵(徴兵制)と軍の天皇親率(統帥権の独立)を果たした。それ故に、その後の昭和の軍部独走のレールを敷いたとして不人気なのだ。
一方で、わが国に地方制度と官僚制度を確立し、「近代国家日本」の制度設計を担った。それでも大日本帝国憲法制定、内閣議会制度を導入した初代内閣総理大臣の伊藤博文と比べると歴史教科書的評価は低いし、人気もない。いずれにしても安倍氏は、明治、大正2代にわたった「元老政治」の象徴となった山県に刮目したのである。要するに、安倍氏は当時から山県研究に注力していたわけで、つい最近になって「読みかけた本」ではないということだ。
では、なぜ今、菅氏はあのような情に訴える表現をしたのであろうか。山県の伊藤への想い同様に、自らを安倍氏と重ね合わせて同氏の「見果てぬ夢」を元老として自分が叶えると言外にアピールしたのではないか。菅氏周辺は、この弔辞にはスピーチライターはいないと説明していると聞く。ご本人と政策秘書は余程の名文家であるようだ。そして菅前首相は決して枯れてはいないのである。