京極夏彦のシリーズ第3弾新刊『書楼弔堂―待宵』(集英社)に散見する「操觚者(そうこしゃ)」というが表現がある。同書の時代設定は明治30年代後半、古今東西の書物が蝟集する当時の東京市街から外れた地にある書舗(書店)が舞台だ。その書楼弔堂を訪れる迷える者たち(徳富蘇峰、岡本綺堂、宮武外骨、竹久夢二、寺田寅彦ら)を称して、京極は「操觚者(今日のジャーナリスト)」と呼ぶ。現代語解釈からすれば彼らをジャーナリストとして一括りにするには無理があるだろう。
だが、京極は当時の支配層(宮家から政・財・官・学界までの所謂「権力者」)に抗して異を唱える者をジャーナリストと位置付けた。もちろん、登場人物各々の反権力度合いは異なる。正直言って、筆者は本書を読むまで「操觚者」なる表現を知らなかった。なぜここで取り上げたのか。もちろん、理由がある。偉そうに言うつもりは毛頭ないが、筆者は自らを「ファクト・ファインディング・ライター(Fact finding writer)」、「インベスティゲイティブ・レポーター(Investigative reporter)」と自任している。平たく言えば、事実を追うべく調査報道者たらん、ということである。最近、我が身を置くジャーナリズム界では、どうも「事実追及」と「調査報道」が少々お座なりになっている、ないしは軽視されていると感じている。自戒を込めて直近の自身の取材体験を紹介したい。それは岸田文雄首相の「ウクライナ電撃訪問」計画に関する事案である。筆者は1月下旬、岸田官邸がドイツのオラフ・ショルツ首相の来日(3月19~21日)と絡めて岸田首相のウクライナの首都キーウ訪問の実現を検討しているのではないかとの情報に接した。その真偽は別にして、その後情報は二転三転し、それこそ裏取りに追われる日々が続いた。その中には首相が2月24日未明に羽田空港を発ち、ポーランド経由列車でキーウに向かうという往路約30時間の行程もあった。
また、上述のショルツ氏の独政府専用機に同乗してやはりポーランド入りしてキーウを訪問するという仰天プランも聞いた。それぞれの信憑性を一つひとつ確認する作業を繰り返し行った。政府の要路にいる人物や外交の裏表に通じた自民党幹部にも接触した。その過程でディープであるが確認する術もない情報を得て、それをオブラートに包んで、「未確認情報」として書いている。結果、岸田氏が3月19~21日にインドを訪問してナレンドラ・モディ首相と会談することが判明した現時点で、筆者が当初、想定した3月中旬のキーウ訪問の可能性は潰えた。▶︎
▶︎では、「岸田首相のウクライナ訪問」は見果てぬ夢となったのか。答えは否である。岸田氏は諦めていない。実現に向けてのネックは首相の安全確保とその日程決定である。首相警護を担うのは警視庁警備部警護課警護第1係に所属する首相警護員(SP)だ。首相外遊における警護は訪問する相手国任せが基本である。では、今回の岸田氏の戦場のキーウ訪問では同行するSPとウクライナ軍部隊に警護を全面的に委ねることに不安はないのか。ウクライナはいまロシアと交戦状態にあり、そのリスクは余りにも大きい。
そこで唯一考えられるのは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国の首脳が、空路ポーランド入りする岸田氏に同行する案である。その切り札がNATO加盟国であり、大々的なウクライナ軍事支援を行うポーランドのアンジェイ・ドゥダ大統領なのだ。ウクライナとの国境に位置するポーランド南東部プシェミシル駅から同大統領と共に列車でキーウに向かうというシナリオである。いくらロシアでもNATO加盟国首脳が同道する日本の首相一行をミサイル攻撃する可能性は殆どゼロに近いと言える。100%の安全は担保できないとしても、これが考え得る最善の首相安全確保策ではないか。
そして次は、訪問の時期である。中国全国人民代表大会(3月5~13日)後の今月下旬から4月上旬に、習近平国家主席がロシアを訪れてウラジーミル・プーチン大統領と会談する可能性を排除すべきではない。さらにウクライナ戦争の仲裁案を携えてモスクワからキーウを電撃訪問するというのだ。仮に習氏の後塵を拝した訪問になれば、その時、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は対面する岸田氏に何と語りかけるのだろうか。「大いに歓迎する」と述べたとしても、胸中に「少々遅かったのではないか」の言葉を呑んでいるはずだ。ウクライナ早期訪問を願うのはFact finding writerである筆者だけではない。「岸田外交」のまさに正念場である。