3月25日付 首相秘書官すら置いてきぼりに…岸田首相「ウクライナ電撃訪問」は如何にして成し遂げられたか

岸田文雄首相のウクライナ電撃訪問の第一報に接して瞬時、頭に浮かんだ言葉は「裏をかかれたな」だった。臍を噛むではないが、「裏をかかれた」は換言すれば「見事にやられた」ということになろうか――。説明が必要だろう。本連載を熱心に(?)愛読されている方は覚えておられると思うが、岸田氏のウクライナ訪問の可能性とそのあり得るシナリオについて、これまで筆者は何度か言及している。NHKの「政治マガジン」(3月22日付)に次のような箇所がある。《ただ、2月下旬、岸田の訪問実現への強い意志は衰えていなかった。岸田は周辺にこう話していた。「『訪問を事前に聞いていなかった』と文句を言う人はいると思うが、それでも振り切って、『行く』っていうことだ。まだ、このプランで、という感じにはなっていないが…」》 僭越ながら、この件は全く正しい。筆者の取材と一致する。
 先ず「2月下旬」である。2月18日アップの本コラムで以下の通り書いている。「首相官邸が密かに進めていた計画は次のようなものであった。2月24日未明(金)、政府専用機で東京・羽田空港を発ち、15時間のフライトでポーランド東南部のジェシュフ・ジャシオンカ空港に到着。そして陸路2時間(実際は1時間半)かけてウクライナとの国境に位置するプシェミシル駅に向かい、同地から列車を利用して10時間で首都キーウに到着する。往路の所要時間は約30時間。直ちに市内の大統領府でゼレンスキー氏と会談、その後ロシア軍による大虐殺とされた民間人殺害現場のキーウ近郊ブチャなどを視察してその日のうちにとんぼ返りする。復路も同じルートで約30時間かけて同27日未明(月)に羽田空港に戻り……」。この日程は首相の安全確保=警護問題がネックとなり潰えた。そこで筆者が次に指摘したのが、岸田氏の3月31日未明出発の可能性であった。
 だが、「政治マガジン」に記述されたように岸田氏の訪問実現への強い意志は衰えなかったのである。そして21日正午(現地時間・日本時間同午後7時)頃、首相一行を乗せた列車はウクライナの首都キーウの中央ターミナルに到着した。インドの首都ニューデリーからの極秘直行が叶った瞬間である。その最大の理由は日程及びその準備に関わる情報管理(保秘態勢)が完璧だったことに尽きる。首相一行はニューデリーのタージパレスホテルを20日午後8時(日本時間・同午後11時30分)頃、極秘裏に“脱出”して市内のパラム印空軍基地から事前に全日空(ANA)が手配・待機させていたカナダのボンバルディア社製ビジネスジェット機「グローバル7500」でポーランドに向け発った。▶︎ 

▶︎仰天したのは、インド訪問同行記者を置き去りにしただけではなく、首相随行の岸田首相秘書官、木原誠二官房副長官秘書官も置いてきぼりを食らったという前代未聞の出来事だった。岸田首相を除く随行者12人は、木原官房副長官、秋葉剛男国家安全保障局長、外務省の山田重夫外務審議官(政務)、中込正志欧州局長、松平翔同局中東欧課職員(通訳官)、室田幸靖内閣審議官(国家全保障局)、その他に医師と警視庁警備部警護課の首相警護員(SP)である。
 もちろん、ロジスティック担当としてポーランドでは首都ワルシャワから大使館員が出向いて対応し、列車でキーウ駅到着を出迎えた松田邦紀駐ウクライナ大使を始め大使館の現地通訳を含むスタッフが5時間の首相滞在をカバーしたが、アテンド要員から事前の情報漏洩もなかった。現地の保秘態勢もほぼ完全だったことになる。森健良事務次官以下、外務省が意気軒昂であるのも当然だ。岸田氏は韓国の尹錫悦大統領との首脳会談(16日)を皮切りに、ドイツのオラフ・ショルツ首相(18日)、インドのナレンドラ・モディ首相(20日)とのトップ会談を経て、21日午後3時50分(現地時間・日本時間同午後10時50分)から大統領府で2時間40分に及んだウォロディミル・ゼレンスキー大統領との会談を実現した。世辞抜きで「岸田外交」の金字塔と言っていい。モスクワで行われた習近平・プーチン会談の翌日、まるでそのタイミングを狙いすましたかのような岸田・ゼレンスキー会談だった。「アジアの2人の指導者がロシアとウクライナの紛争の対極で首脳会談を実施した注目すべき場面」(米紙ワシントン・ポスト21日電子版)との指摘にあるように、岸田外交が中国のロシア傾斜に“待った”をかけたに等しい。岸田氏はゼレンスキー氏を前に高からかに「美しい大地に平和が戻るまで日本はウクライナと共に歩んで行く」と言明した。「侍ジャパン」がWBCで世界一を14年ぶりに奪還し、日本中が熱狂したこととの相乗効果は計りしれない。内閣支持率のさらなる向上は間違いない。