何はともあれ、この話題から書き起こさなければ気が済まない。岸田文雄首相のウクライナ電撃訪問のことである。日本中が発熱、熱狂したワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、日本代表「侍ジャパン」は米メジャーリーグ選手主体の米国チームを破って世界一に輝いた。準決勝でのメキシコ戦で劇的な逆転サヨナラ勝ち、決勝戦では大谷翔平が最後を締め日本全国が沸き立っていたちょうどその頃、岸田氏は訪問先のインドから隠密行動でウクライナへ向かい、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領と会談していた。本稿で初めてインドの首都ニューデリーからウクライナの首都キーウまで約19時間の電撃訪問の全貌を明かす。それはまさに、世界で大ヒットしたトム・クルーズ主演の米スパイアクション映画『ミッション:インポッシブル』のように緊迫した首相ウクライナ行の舞台裏をのぞき見るようなものだった。G7広島サミット(5月19~21日)の主要テーマはウクライナ支援である。G7首脳でウクライナを訪れていないのは岸田氏だけだった。しかも今年は議長国。国際社会における日本のプレゼンスからいっても、もはや外せない外交課題となっていた。しかし、日本のリーダーが戦地に赴くのはインポッシブル(不可能な)ミッション(任務)だった。
だが、それをかなえたのである。3月20日20:00(現地時間)、首相一行は宿泊先のタージパレスを極秘裏に出発。鈴木浩駐印大使がひそかに準備した小型バスでパラム空軍基地に移動(所要時間40分)。直ちに同基地で待機していたカナダ製のビジネスジェット機(乗客12人)でポーランドに向け離陸。20日23:41(現地時間)、同国南東部のジャシオンカ空港に着陸(所要時間7時間30分)。一行は車に乗り換え、1時間半かけてウクライナ国境に近いプシェミシル駅に到着(21日01:25)。首相一行は以下のとおり。岸田首相、木原誠二官房副長官、秋葉剛男国家安全保障局長、嶋田隆首相首席秘書官、大鶴哲也首相事務秘書官、山田重夫外務審議官(政務)、藤本健太郎総合外交政策局総務課長、高野博明同課長補佐、医務官、公式カメラマン、首相警護員(SP)の計11人。前日までにポーランド入りしジャシオンカ空港で一行を出迎え合流したのは、先発隊の中込正志欧州局長、近藤紀文同局中・東欧課長、松平翔同課職員(通訳官)である。キーウ中央駅に到着したのが同日12:00ごろで、所要時間は約10時間。今回のウクライナ電撃訪問が成就したのは保秘態勢が鉄壁だったことに尽きる。
事例でそれを示す。首相訪印に同行したSPは4人。そのヘッド格のSPが嶋田氏の部屋に呼ばれてウクライナ行を言い渡されたのはホテル出発の僅か1時間前。医務官とカメラマンも同様に他言厳禁で支度を命じられた。木原、秋葉両氏の秘書官も翌朝起きたら部屋がもぬけの殻で慌てたほど、秘密保持は徹底していた。▶︎
▶︎そもそもウクライナ訪問の最大のハードルは秘密保持と首相の安全だった。岸田氏は「漏れたら即刻中止だ」と周辺に何度もクギを刺した。事実、昨年来計画が浮上しては消えることを3回繰り返した。そして訪問先のインドからウクライナへ直行するしか保秘手段がないと決断した。岸田氏の背中を押したのが、2月20日のジョー・バイデン米大統領のキーウ電撃訪問と翌日のジョルジャ・メローニ伊首相のキーウ入りだった。首相官邸でこの決意を明かされたのは木原、秋葉、嶋田の3氏。
その中でも最側近の木原氏と岸田氏の距離感がよくわかるデータがある。「首相動静」によると、2月中・下旬に岸田氏が木原氏と会っているのは、8日06:30~07:52(公邸)、14日18:30~20:03(官邸)、15日06:10~07:29(公邸)、07:37~08:35(官邸)、21日18:53~20:33(公邸)、22日06:05~07:27(公邸)、07:35~08:32(官邸)、27日09:05~11:48(官邸)、28日06:07~07:19(公邸)、08:35~08:45(官邸)。首相と側近の協議で、これほどの過密な日程は過去に類例がない。首相が官房副長官(政務担当)と協議するテーマは主要政策から国会対応など内政関連まで多々ある。それにしてもこの頻度と時間の長さは想像のほかである。察するにこの緊密協議で時間を割いたのはやはりウクライナ訪問であったに違いない。ところでキーウ電撃訪問が確定してから、その詳細な行程表やロジスティクスを練り上げたのは山田氏だ。隠密計画の全体像から細部まで一切を掌握していた。岸田氏が懸念していた情報漏洩がほぼ皆無だったのは、先述したSPの例でもわかるように知る者を極力限定したためである。
次は、首相の身の安全問題について。読者は岸田氏一行がプシェミシル駅で特別列車に乗り込む光景をNHKと日本テレビのスクープ映像で覚えていると思う。両メディアは航路や飛行データを公開する民間サイト「フライトレーダー24」を活用し、一行を乗せたチャーター機がインドを北上してカスピ海や黒海の上空を飛行していることを把握、目的地はジャシオンカ空港であると特定した。この機転が国境駅への先駆け取材となった。警護最大の懸念は列車移動の最初の3時間だった。線路がほとんど一直線であり、その区間が危険視された。しかし、完全武装車両が列車と並走し、厳重警護することで懸念は氷解。ウクライナで首相警護を担った同国兵士は英特殊空挺部隊(SAS)での訓練経験があるプロフェッショナルだ。こうしてウクライナ電撃訪問は岸田外交の旗幟となった。それは、直近のNHKの世論調査(4月8~9日実施)では、内閣支持率は●%と前回比●ポイント上昇。この余勢を駆って、9月の自民党役員人事・内閣改造後の衆議院解散・総選挙となる可能性大である。