飯村豊・元駐仏大使の新著『外務省は「伏魔殿」か―反骨の外交官人生と憂国覚書』(芙蓉書房出版)を読んだ。飯村氏とは長いお付き合いである。1969年外務省入省後、フレンチスクール(仏語研修)出身の同氏は在ソ連(当時)日本大使館、在仏大使館、在米大使館勤務を経て、アジア局(現アジア大洋州局)南東アジア一課首席事務官、経済協力局技術協力課長、官房報道課長、欧亜局審議官、経済協力局長、大臣官房長などを務めた。
その後、駐インドネシア大使、駐仏大使、政府代表(中東及び欧州地域担当)を歴任。筆者が知己を得たのは飯村氏が報道課長時代であり、今日まで30余年に及ぶ。同氏との緊密関係には理由がある。同書で多くを割いて言及している“眞紀子騒動”が契機となった。2001年4月、当時の小泉純一郎首相が田中眞紀子衆院議員を外相に起用。僅か1年足らずの外相在任中に同氏が起こした数多の「事件」対応について飯村官房長に助言したのだ。騒動勃発には伏線があった。同年初頭の「松尾(克俊)横領事件」(「機密費疑惑」)だ。筆者は同年8月に『機密費』を刊行しているので参照されたし。肝心の騒動の顛末は本書第1章<「外交と世論の関係」は永遠の課題>に詳述されているので、本書を優先して読むことをお勧めする。▶︎
▶︎そもそも飯村氏はなぜ、田中氏から「伏魔殿」呼ばわりされたのか。01年5月の衆院予算委員会。そして登場人物は田中外相と辻元清美議員(当時・社民党政審会長)である。その光景を再現する。《辻元清美議員が「大臣はよく外務省を伏魔殿といわれますが、伏魔殿とは、具体的には誰を指しているのですか?」と質問しました。田中大臣は、補佐として後ろに控えていた私を指差して、「この人ですよ、この人」と答弁しました。呆れ果てるとは、このことです》。 眞紀子騒動ばかりに触れると、こちらも疲れるので止めにする。
本書第2章<相互批判と協力が交錯する日米欧関係>で言及した「ポスト冷戦時代の欧州と日欧協力」と「フランス勤務で米国がよく見えた」は出色だ。飯村氏の面目躍如と言っていい。対米追随とされてきた日本外交を、フランス的視点で改めて見直す必要があるのではないか。それが終章<「第四の開国」を求めて>にある「日米欧グローバル・パートナーシップの時代に向かって」につながる。そして岸田文雄首相は、先にリトアニアで開催されたNATO首脳会議、ベルギーで開かれた日EU定期首脳協議で、「日米欧連携」の重要性を国内外にアピールしたのである。