10月24日付 第5次中東戦争の様相、イスラエル偏重のオッズは決して高くない 筆者の「従軍記者」経験から岸田首相に一言

筆者はかつて「従軍記者(War Correspondent)」の経験がある――。アラブ諸国とイスラエルは1948年から73年にかけて4度にわたって中東戦争を戦った。1973年10月6日、エジプト・シリア連合軍が領土回復を目指してイスラエルを奇襲攻撃。緒戦は勝利したが、軍事力が上回るイスラエルの反撃を受け大敗を喫したのが第4次中東戦争(「10月戦争」とも呼ぶ)である。当時、在籍していた週刊ポスト編集部に在日イスラエル大使館から現地取材の打診があった。同年末のことだ。1970年代初頭、『日本人とユダヤ人』がベストセラーとなり、謎の著者イザヤ・ベンダサン探しに加わった。そしてヘブライ大学のアルトマン博士(日本史専攻)ではないかと同誌に書いた。
 これがイスラエルで話題となり、国営ラジオ局から生中継の電話取材を受けるまでとなった。こうした経緯があったのである。かくして筆者は停戦4カ月後の74年2月10~21日までイスラエル・エルサレムに滞在した。戦勝国イスラエルは、北東の隣国シリアのゴラン高原からエジプトの港湾都市イスマイリアまでを占領していた。そして筆者は占領地域取材に向かった。事前に国防省で「自己責任同意書(letter of consent)」に署名させられた。▶︎

▶︎万が一の事態が出来してもイスラエル側は責任を負わないというものだ。同行したのは自動小銃を肩にした陸軍連絡将校(大尉)、ガイド兼運転手の2人。同14~15日にかけて軍用ジープ9時間余でシナイ半島を走破し、翌朝スエズ運河(仮橋)を渡り、イスマイリアに到着した。日差しが強く、着ていたサファリジャケットを脱いだ。そこはアフリカ大陸である。19日のゴラン高原取材は真逆で残雪が目につく寒冷の山岳地帯だった。その途上、イスラエル軍が破壊したシリア軍の旧ソ連製T62型戦車が放置されていた。同行の情報将校(中尉)に「数㌔先は交戦中だ。撮影は厳禁」と厳しく注意された。通過した検問所に1時間後迫撃砲を撃ち込まれたと、エルサレム到着後に聞かされた。改めて戦地であることを実感した。
 ここからが本題。イスラエルとパレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスの戦闘は17日の病院爆発もあり最悪のシナリオに向かっている。ガザへの地上侵攻自制を求めるバイデン米大統領は18日にイスラエルを訪れたが、ネタニヤフ首相は上面とは別に聞き置くだけだった。第5次中東戦争の様相である。それでも岸田文雄首相はイスラエル偏重に舵を切るのだろうか。オッズ(賭け率)は決して高くない。