第16代駐中国特命全権大使を務めた垂秀夫氏の出版記念パーティーが6月11日夕、東京・内幸町の日本プレスセンターで開かれた。初の著書は『「言の葉」にのせたメッセージ』(日本僑報社)である。同書は「垂氏が駐中国大使在任中に中国や日本で行った主なスピーチ等をまとめ、自ら加筆修正したものであり、垂氏の外交官人生の締め括りである」(新刊案内から)。この四半世紀で外務省チャイナスクール出身にあって、傑出した中国専門家として知られる。1985年外務省入省、南京大学留学を経て在中国日本大使館二等書記官を皮切りに、在香港総領事館領事、台北事務所総務部長、アジア大洋州局中国・モンゴル課長、駐中国公使(政務)、大臣官房総務課長、領事局長、大臣官房長、駐中国大使などを歴任。2023年12月に退官。事前に面識はあったが、筆者が時間を気にせずに垂氏の話を聞く機会を得たのは13年7月。故白西紳一郎日中協会理事長(当時)に「北京で会うチャンスは今しかない」と強く勧められて一緒に2泊3日で訪れた。夕食に招かれた北京ダックで有名な「大董」でロングラン・ブリーフィングの恩恵を受けたようなものだ。突然、白西氏が「垂さんは終日、監視されているよ」と指差した先の窓越しに重厚な公安車両が見えたのには驚いた。公然監視の「嫌がらせ」である。▶︎
▶︎それほど中国当局が垂公使の情報収集と人民解放軍幹部にまで築いた人脈に警戒心を抱いていることを改めて知った。厳しい監視下にあっては自由な外交官活動に支障を来たす。1年余後に帰国を余儀なくされたことは周知の事実だ。そんな経験がある垂氏だが、中国(人)に向ける眼差しは極めて優しい。
一例を挙げる。新著でも言及している。昨年12月4日、日本大使公邸で行われた離任記者会見でのこと。記者団の質問「印象に残っている中国の指導者は?」への答えがそれだ。小泉純一郎首相の靖国神社参拝直後の2002年4月、江沢民国家主席時代の最側近とされた曽慶紅元副主席が日本の大分県を訪れた。垂氏が曽氏に「なぜ日本に行けたのですか。反対はなかったのですか」と尋ねると、次のように答えた。「日本には私の友人二人が待っていました。野中広務さんと平松大分県知事だ。許可をもらって行きました」――。文中で垂氏はリスクを取ってでも日中関係を進める素晴らしい人と記している。だが、実は垂氏もリスクを取って、習近平指導部下で「曽慶紅エピソード」に触れたのである。