自民党総裁選は9月12日の告示1週間前にして、立候補に必要な国会議員20人の推薦人を巡るギラギラした権力闘争の様相を呈している。
それは、岸田文雄首相(党総裁)が8月14日に予想外の総裁選不出馬表明、事実上の退陣表明を行ったことを起点とする。皮肉なことに、自民党派閥による裏金事件発覚で難破・沈没寸前に追い込まれた自民党丸は岸田船長の判断で乗員・乗客救命のため沈没までの時間稼ぎで内燃機関エンジン(派閥)を荒れ狂う海へ投棄した。そして「再生自民党」のスローガンを掲げ新しい総裁選出の選挙戦実施を企図した。麻生派(志公会)を除くすべての派閥が解消されての総裁選。だからこそ派閥の論理と関係なく、多くの出馬が実現したし、誰が誰を支持するのか、これまでの派閥の論理では説明・予測できない事態になった。
とはいっても、人間社会どこでも3人集まれば派閥ができると言われるように、これからも派閥「的」なものが新たにできないわけでもないし、これまでの人間関係が無に帰すわけでもない。具体例を挙げる。いの一番に立候補を表明した小林鷹之前経済安全保障相(旧二階派)と麻生派重鎮の甘利明前幹事長の関係、現時点で次期総裁に最も近い小泉進次郎元環境相と岸田氏側近で知られる村井英樹官房副長官・小林史明デジタル副大臣の関係のように、派閥という器が割れたからこそ、派閥の内外を問わず、これまでの人間関係が意味を持つようになったと思う。そして永田町・霞が関関係者だけでなく多くの国民も総裁選未体験ゾーンを期待した。どうやらその目論見も外れたようである。冒頭で言及したように20人の推薦人獲得を巡る抗争が予想を遥かに超えて激化しているのだ。
昔話に少々お付き合い願いたい。戦後の自民党政治のエポックとなった55年体制が確立した翌年1956年12月の公選総裁選から58年5月の総選挙にかけて、当時の党内勢力図を「八個師団」と呼んだ。党内では軍隊用語の「師団」が通用し、「派閥」はその後暫く経ってから常用されるようになった。いずれにしても、当時は、55年の保守合同以前の旧自由党系の池田(勇人)、佐藤(栄作)、大野(伴睦)、石井(光次郎)の四派であり、旧民主党系は岸(信介)、河野(一郎)、松村(謙三)・三木(武夫)、石橋(湛山)の四派であった。確かに、「八個師団」だ。 ▶︎
▶︎今回も最終的に8~9人が出馬する。総裁選後、良く言えば「ノーサイド」(岸田氏)になるが、実際は立候補した人物とその推薦人20人が蝟集する派閥「的」なグループが誕生することになる。これまでの派閥の合従連衡とほぼ同じである。
具体例をあげてみたい。党内有数の政策通として知られる齋藤健経済産業相は出馬への強い意欲を持つが、現状では推薦人確保で難航している。同氏に立候補を促したのが前総務会長の遠藤利明党中央政治大学院学院長であり、齋藤氏支持を打ち出した小渕優子選対委員長、古川禎久元法相、黄川田仁志元内閣府副大臣らは中央政治大学院人脈である。齋藤氏は、同学院主催の「背骨勉強会」(全7回)で2回講師を務めた。特に1回目の「政治家のための戦前史」は大きな反響を呼んだ。これが契機となった。 小渕氏は今年1月に茂木敏充幹事長が率いた茂木派(平成研)を青木一彦参院筆頭副幹事長らと共に退会したことから、小泉氏後見人の菅義偉前首相が4日に出馬表明した“茂木潰し”のため仕掛けたという加藤勝信元官房長官の総裁選出馬に伴う推薦人就任が確実視されていた。それだけに同氏の齋藤氏支持は永田町関係者を仰天させた。
次にびっくりしたのは、総裁選1回目投票で首位、2位を小泉、石破両氏が競り合うのはほぼ間違いないと言われるようになった先週末、その小渕氏が決戦投票では石破氏に1票を投じると周辺に語ったというのである。この総裁選ドラマの最終章で齋藤氏は小泉陣営に合流し、「小泉政権」の大団円となれば官房長官が確実視される。その小泉氏とクライマックスで総裁を争うであろう石破氏を菅氏は忌避している。
そして齋藤氏参戦に手を貸す小渕氏が石破氏を支援する。どうやら複雑骨折状態下で奇々怪々な権力闘争が展開しつつあるようだ。これはスクリプトライター不在のドラマ故のことなのだろうか。