筆者は、石破茂首相が「官邸の主」になる前から「気が付かない人」、「気遣いをしない人」、「気配りとは無縁な人」などと言われていることを承知していた。「私自身、足らざる部分が多々あったと認識している。謙虚に真摯に受け止め、改善に努めなければならないと痛感している」――。
11月3日午後の衆院本会議での首相答弁である。立憲民主党の小川淳也幹事長が代表質問の中で11月中旬に南米ペルーの首都リマで行われたアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議に参加した際、会場でスマートフォンを操作したり座ったままカナダのジャスティン・トルドー首相ら外国首脳と握手したりする姿がテレビ映像で流れたことから、石破氏の「外交マナー」を問題視したのだ。外国首脳同士の挨拶は外交プロトコル(儀礼)に従う。それは外交の「常識」である。石破氏に悪気があったのではない。体調が良くなかったわけではない。自ら立ち上がって握手に応じるべきだと気が付かなかったのだ。 筆者がここで指摘し、紹介するエピソードはいずれも全て「事実」である。先述の「気が付かない」と、これから言及する石破氏の「気が付かない」は次元が異なることは分かった上でのことである。長年にわたって石破氏と自民党政務調査会各部会や党内派閥・グループの政策勉強会などで喧々諤々の議論を繰り返したり、席を同じくして政策提言をまとめるべく一緒に汗を流した同志から聞いた話である。そのような機会の、常にリーダーであった石破氏から会合後、「お疲れでした。一緒にビールでもどうだい?」といった誘いの声掛けは一切無かったという。気遣い、気配りという言葉は「石破辞書」には掲載されていない。
そうした石破氏のパフォーマンスは生来のDNAから来るモノなのか。それは政治一家3代目(父方)、バプテスト家系4代目(母方)といった血脈と関係があるのではないか。それとも父・二朗元自治相の急死によって銀行マンから政治家に転出した後、つまり何か後天的な理由があるのだろうか。▶︎
▶︎どうやら後者ではないかと思われる証言を得た。石破茂氏は1986(昭和61)年7月の第38回総選挙で、亡父の地元・鳥取全県1区(定員4人)から立候補・初当選(最下位)した。次の90年2月総選挙では断トツ1位で票を獲り過ぎて自民候補(経世会所属)が落選の憂き目に遭った。小選挙区比例代表並立制導入の96年10月の第41回総選挙後も一貫してトップ当選。
要するに選挙に強いのだ。その石破氏は初当選から自民党派閥は中曽根(康弘)派(後に渡辺美智雄派)である。この1~2回生時代がどうやら肝のようである。同期・同派の仲間であった石破、木村義雄(香川1区)、大石正光(宮城2区)の各氏は共に政治一家生まれで東京の私立大学卒業であり、ほぼ同じ世代である。その仲良し3人組の前に同期・同派で兄貴分の笹川堯氏(群馬2区)が登場する(其々当時の選挙区)。あの笹川良一氏の息子である。カネがあり顔も広い笹川氏が連日連夜、3人を銀座・赤坂を連れ回したというのだ(因みに笹川氏は一滴も飲まない)。 そこで酒食は奢られるものであって奢るものではないと刷り込まれたというのである。筆者もかつて同志だった人から直接聞いた。「何事でも準備万端の用意が出来ましたと、赤いカーペットが敷かれてやっと重い腰を上げてお出ましになる、石破さんって、そういう方です」――。石破氏は笹川氏とはリクルート事件勃発の1988(昭和63)年から2年間ほどの政治改革の軌跡の中で同志でもあった。
そして御年89歳の笹川氏は何と先の自民党総裁選で決選投票不可避の時点になるや高市早苗経済安全保障相陣営の黒幕・麻生太郎副総裁(其々当時)に対し石破氏支持を強く働きかける直前に寸止めしたとされる。さらに7月の東京都知事選でも裏面で小池百合子知事を支援した。未だ生臭いのだ。その笹川氏は石破氏によく「思った事を直ぐに口にするな」と助言するそうだ。だが、石破首相の耳には届いていない。外に目を向ければ、フランス、ドイツ、そして韓国と相次いで政変が出来した。我が方の先行きも心配である。