先週の事である。信を置く霞が関住人との会食時に「歳川さんなら間違いなく関心を持つテーマだと思いますが、ヤーヴィンってご存じですか?スペルはYarvinです」と尋ねられた。不覚にも初めて耳にした名前であり、苗字からユダヤ系の人物ではないかと想像しただけで、口の端から出た返答は「いったい誰ですか。そのヤーヴィンという人は?」と返しただけだった。お恥ずかしい限りであるが、永きにわたってジャーナリストを家業にするも、生来メカに晩熟のローテク人間のため、今日に至るまでネット空間とはほぼ無縁であった。しかし必要に迫られてiPhoneで検索を繰り返し、知己で詳しそうな人物の顔を思い浮かべて電話もかけた。最後は件の霞が関住人にメールで教えを乞うた。判明した事実は、筆者の想像を遥かに超えたものだった。それをベースに取材を重ねてみて仰天した。
以下、その概要を記してみよう。カーティス・ヤーヴィン(Curtis Yarvin)、1973年生まれの52歳。カリフォルニア大学(バークレー校)、ブラウン大学(BA)。もともと米シリコンバレー(SV)でソフトウェアエンジニアとして活動していたが、2000年代後半から「メンシウス・モールドバグ(Mencius Moldbug。儒教の孟子と投資用語のゴールドバグに因んだペンネーム)」で民主主義を批判するブログを立ち上げた。2013年、分散型インターネットの構築プロジェクト開発のスタートアップを設立。SVで超有名な投資家、ピーター・ティール氏から出資を受ける(以上、日本経済新聞3月1日付電子版記事を参照)。エンジェル投資家、川崎裕一氏の「note」(5月12日付)の論考「“反民主主義(Dark Enlightenment)”思想家ヤーヴィンの正体」と、文筆家の木澤佐登志氏の「なぜテックビリオネアは民主主義を破壊したがるか―権威主義的リバタリアンの台頭」(『中央公論』4月号)に記述されたヤーヴィン氏に関する興味深いフレーズをピックアップする(Dark Enlightenmentは通常、「暗黒啓蒙主義」と訳す)。<JDバンス(副大統領)、P・ティール(シリコンバレーの投資王)、マーク・アンドリーセン(Web 3の伝道師)といった現代米国の政治・経済のキープレイヤーたちが、ヤーヴィンの論考を引用し、耳を傾けるからだ>(川崎氏)<彼は、米政府を企業経営に類似した形に移行させ、そのトップに専制君主となるCEOを置くべきだと主張した>(木澤氏)
要するに、現在のドナルド・トランプ大統領は国家CEO(最高経営責任者)としてアメリカ合衆国を統治するということだ。先の霞が関住人の言葉を借りれば、「トランプ君主制政権」では絶対君主(王)以外すべてが臣民である。だから故に日米関税閣僚協議は8回目で合意にこぎ着けたが、たとえ交渉が8合目まで達していてもトランプ大統領のゴーサインが無ければ基本合意に至らないのだ。▶︎
▶︎決定権者は絶対君主のドナルド・ジョン・トランプ(Donald John Trump)である。想起して欲しい。米ホワイトハウス(WH)は公式アカウントにトランプ政権発足1カ月の2月20日前日、王冠を被った同氏の肖像画(左下に「LONG LIVE THE KING」の記述がある)を掲載した。ご本人もSNSに「国王万歳!」と投稿している。もはや言葉を失うのは筆者だけではあるまい。
それでも現実世界に戻らなければならない。トランプ氏をその気にさせたヤーヴィン氏の思想に強く影響されているWH高官、政権幹部を割り出したので紹介する。ヤーヴィン氏だけではなくティール氏からも多大な影響を受けたJ・D・バンス副大統領を筆頭に、WHではスティーブン・ミラー大統領次席補佐官(政策担当)、マイケル・クラッツィオス科学技術政策局(OSTP)局長、スリラム・クリシュナンAI政策大統領上級顧問、政府にはジェイコブ・ヘルバーグ国務次官(経済成長・エネルギー・環境担当)、マイケル・アントン国務省政策企画局長、スコット・クポー連邦人事管理局(OPM)局長らがいる。これは筆者が探索できた範囲であり、もっと多くいるに違いない。
実は、ヤーヴィン氏に注目した超ビッグメディアのジャーナリストがいた。英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)コラムニストのジリアン・テット氏は7月18日付電子版に「Curtis Yarvin’s ideas are going ever more mainstream in Trump’s Washington - and investors should be worried(カーティス・ヤーヴィンの考えはトランプ政権のワシントンでますます主流となり、投資家は警戒すべきである)」の見出しを掲げて、記事中で同氏と意見を交わしたと書いている。
しかし同女史はJ・D・バンス副大統領が彼の考えに賛同し、多くの政権中堅幹部が彼のブログのフォロワーであることを鋭く指摘している。次期共和党大統領最有力候補のバンス、トランプ氏の絶大な信頼を得ているミラーの両氏が「自称<ポピュリスト権威主義者>ブロガー」(FT)の多大な影響下にあると考えただけでぞっとする――。