筆者はジャンルを問わず、乱読と言っていいほど本をよく読む。最新刊の中でイチ推しは安倍龍太郎の『ふたりの祖国―Their Homeland』(潮出版社。定価2420円)である。帯の表に「大統領親書の罠から天皇を守れ―朝河貫一×徳富蘇峰―満州事変から日米開戦―真の愛国とは、正義とは何か」の文字が躍る。帯裏には「戦後80年――透徹した『史眼』でアジア・太平洋戦争の真実に迫る渾身の歴史小説」とある。熱量高い帯に負けない歴史小説だ。佐藤優氏も「国家の悪に切り込んだ感動の書」と絶賛する。ほぼ同時期に刊行された、筆者が兄事するジャーナリスト・船橋洋一氏の新刊『戦後敗戦』(実業之日本社。定価3080円)が著者献本で手元に届いた。例によって分厚い同書冒頭の<目次(はじめに)「戦後敗戦」から学ぶ―「国民安全保障国家」と「起業家国家」の構築を>を繰って驚いた。次のように記述されている。<明治開国から敗戦までの80年間と敗戦後の80年間のどちらも最初の40年と次の40年間で明暗がはっきりと分かれるかのように見える。明治は1904~1905年の日露戦争後、それこそ朝河貫一が警告した「日本の禍機」に嵌り込んだ(※1)。戦後は、1985~1986年のプラザ合意と日米半導体協定に表れる日本の経済力の絶頂期を最後に「バースト」の坂道を転げ落ちた。戦後を敗戦として括ることには、当然、異論と反論が起こるであろう> そう、ここでも朝河貫一が登場するのだ(徳富蘇峰は、高校生向け「日本史」でも言及されるので、本稿では措く)。件の安倍本の裏帯に、朝河について、次のように書かれている。<イェール大学教授の朝河貫一は、アメリカで激化する反日世論にさらされながらも、日米融和を唱え、祖国日本に警鐘を鳴らし続けた。日米開戦へと突き進んでいく日本―昭和16年12月、朝河は開戦の回避と和平を目指して、ルーズベルト大統領から昭和天皇への親書を起草するが……> 歴史を遡れば、その36年前の日露戦争後の1909年(明治42年)、当時、米イェール大学講師だった歴史学者朝河は実業之日本社から『日本之禍機』を刊行、同書で<「戦前世界が露国に対して有したる悪感は、今や変じて日本に対する悪感となり、当時日本に対したる同情は、今や転じて支那に対する同情となりたり」と述べ、国際協調に背を向け、満州進出を図る故国、日本に警鐘を鳴らした。朝河は、米国内の対日観の悪化の背景として……すなわち地政学的かつ地経学的要因の怖さを指摘している>(『戦後の敗戦』のはじめにの※1を引用)。『ふたりの祖国』の中で描かれている朝河個人の淡い恋心―しかも亡くなったアメリカ人の親友夫人への―にまつわるエピソードもまた明治時代特有のインテリらしさが優しい眼差しで描かれているのが良い。
なぜ、朝河貫一を取り上げるのか。安倍龍太郎は同書「第十章 理性と熱狂」で、日米開戦前夜の朝河にこう言わせている。「未来の歴史を思い通りに作ろうとするのは、少しでも歴史を研究した者なら考えもしない乱暴で愚かなことで、天に対しても不遜きわまりないことだと思います。人の世は二、三年後さえ予想することができないことは、第一次世界大戦から今日までの年ごとの変化の激しさを見ても明らかです」。安倍は、卓見に富む言葉を朝河に託して今日現在の読者(国民)に語りかけている。そして作家・安倍もジャーナリスト・船橋氏も朝河に言及するに当たって、共に『日本の禍機』(講談社学術文庫。1987年発行)を参考文献の第1に挙げている。筆者は今、罪悪感にとらわれているのだが、実は実業之日本社刊の原本(1909年発行)紛失の不祥事を犯したのではないかと恐れ慄いている。
正直に言う。90年代後半、親しかった外務省某局審議官(当時)が「日本外交を理解するにはこの本が役立つよ」と省内図書室所蔵の同書を筆者に貸してくれた。同氏は局長、大使も歴任した元幹部だ。同氏の海外駐在ということもあって、一時、疎遠となった。そして借りた本の事を失念した。十数年前に事務所を近場のビルに引っ越した際、大型ダンボール箱十数個に大量の本や資料などをリヤカーで何度も運んだ混乱によって、件の朝河本は行方不明となった。ちなみに、今なお開封していないダンボール箱が2個ある。加えて2011年の「3・11東日本大震災」があった。床から天井まで壁一面に設置した本棚が幾つも倒れて大量の本も崩れ落ちた。要は、探し出す気力も失せたのだ。▶︎
▶︎それでも今回の2冊の秀逸本との遭遇もあり、今一度、朝河貫一の『日本之禍機』を手にしたいとの想いに促されて探した。成果は無かった。しかし予期しなかった新手の古書が出てきたのだ。全く忘れていた一連の3冊(しかもそのうちの一冊に手紙が挟んであった)は広く外交に関わるものだった。守屋榮夫の『我等の進むべき道』(蘆田書店。大正14年3月発行)、佐々木指月の『米國を放浪して』(日本評論社。大正10年7月発行)、小田久太郎の『商心遍路』(実業之日本社。昭和7年1月発行)である。手紙の主、千葉清彦氏は『週刊ポスト』(1969年夏の創刊時の)ライターで早くに故郷に戻り、岩手県水沢市で古本屋を営みながら田舎の“楽でない”隠居生活を送っていた。手紙からすると、2000年7月12日に筆者が講演で盛岡市に出向いた折に同氏のパートナーともども酒席に招いたことへの礼状である。手紙の巻末に一句あった。「たそかれは パリ、バリもなき 文月かな 二代目南蛮亭木魚」少々、説明がいる。もちろん、パリもバリも地名だ。『ポスト』創刊時の担当編集者・岡本宏嗣氏が1972年春に「男は舞台で果てるべし」と言い残し、パリに発った。そして彼の地で21年3月に客死した。岡本氏を軸に千葉、筆者、次に紹介する冨田幹雄(ペンネーム夏文彦)の4人に通底するのは書籍・本なのだ。
一方、先述の荒れ放題の我が事務所内の探索を行っていたら、新たな本が出て来た。故冨田幹雄氏も『ポスト』創刊時のライターだ。それだけでない。岡本、千葉、冨田の3人組は60年代半ばから東京・早稲田の古本屋「浅川書店」に集う“同志”であった。冨田氏は92年8月に亡くなる直前、神奈川県川崎市立病院の病床に、昨年12月に逝去したハリウッド映画監督・原田眞人氏の夫人・福田みずほ女史と筆者を招き、最後のお別れの儀式を催した。その際、新宿ゴールデン街全盛期に「薔薇のトミイ」として名を馳せたことを彷彿させるかのようにニヤッと笑い、「おい歳、お前に用意したぞ」と、枕元にあったグレアム・グリーン全集/全25巻(早川書房)の第14巻の『おとなしいアメリカ人』(昭和59年4月再販発行)と同書(同年9月の改訂第一版発行)を差し出した。かつて筆者が、グリーンの同書が大好きだと言ったのを覚えていたのだ。感涙した。後年の99年初夏、カメラマンの山本晧一氏と同書の舞台となったベトナムのホーチミンシティ(旧サイゴン)に取材で訪れたが、真っ先に駆け付けたのはマジェスティック・ホテルのバーだった。こうして思い出を紡いでいると、船橋氏が文中で紹介した、1973年の石油危機出来時に中曽根康弘元首相が放った言葉「われわれは、自分の力で『生きている』のではなくて、世界のすべての国から『生かされている』ことを身に沁みて感じさせられた」が心に刺さって離れない。第3次オイル・ショックの真只中の今、ドナルド・トランプ米大統領にこの言葉を進呈しても詮無いことか……。
