経済新聞(10月10日付朝刊)オピニオン欄連載の「Deep Insight」に掲載された、日本有数の外交・安全保障専門家である秋田浩之コメンテーターの記事「米中、遠いビッグディール」には得心した。米国のドナルド・トランプ大統領は中国の習近平国家主席と9月24日午前(米東部時間・日本時間25日未明)、米ホワイトハウス(WH)で首脳会談に臨んだ。4カ月ぶりの米中首脳会談に習氏は国賓として迎えられた。秋田記者は記事冒頭に次のように書いている。<……大演出とは裏腹に会談の成果は驚くほど乏しい。(中略)これにより米中首脳は同じ年に2回、互いの国を訪れることになる。極めて異例だ。なぜ早々と2回の追加会談を確定したのか。通商や安全保障をめぐり、米中がビッグディール(大取引)に向かう前触れとみる向きもある。だが、現実はむしろ逆だろう>トランプ氏が11月3日の米中間選挙前に習氏に求めた対米輸入案件は期待外れとなり、一方の習氏はトランプ氏に強く要求した台湾への武器売却と台湾独立への言質を得られなかった。両首脳がそれぞれ国内向け「成果」を誇示できなかった。秋田記者は<今回の会談で鮮明になったのは、むしろ台湾をめぐる溝の深さだ>と断じ、こう続ける。<……トランプ氏は台湾問題について次のように考えている。台湾問題で中国の言いなりになれば、自分は「対中外交のルーザー(敗者)」とみなされかねない。米議会や米有権者の保守層から批判を招き、「偉大な大統領」として歴史に名を残すことが難しくなる――>この指摘にも得心した。同記事を読んだ筆者の関心は直ぐに、垂秀夫前駐中国大使が今夏に刊行した『「力の時代」を生き抜く―戦略的思考』(文藝春秋)に飛んだ。帯に「中国と対峙するには、孫子、毛沢東、キッシンジャーに学べ」とある。垂氏(1985年外務省入省)は、チャイナスクール出身の中でも極めつけの中国専門家として知られる。同書は、筆者が兄事する元朝日新聞主筆、船橋洋一氏の集大成と呼ぶべき渾身の一冊『戦後敗戦』(実業之日本社。今年3月刊行)以来、久しぶりに傍らにピンク色のマーカーと付箋を置いて読んだ。付箋を付けているので、当該の文章は直ぐに見つかる。<(現時点での総合国力では、今なお中国は米国に及ばないという)現実認識から、習近平の対米戦略は「長期的な戦略的闘争」と「短期的な戦術的安定」という二段構えになっている。……習近平が「戦略的安定」と強調するのは、……中国がさらに力を蓄えるための「戦略的観点から見た戦術的安定」である。……習近平が見据えているのは、トランプとのディールそのものではない。その先にある、米国を乗り越えた世界秩序なのである。もっとも、この分析はあくまで中国側の自己認識に基づく戦略設計でしかない。……私自身は中国の国力自身がすでにピークアウトしていると分析しており、習近平の長期戦略が功を奏すると考えているわけではないことを断っておきたい>そして<……孫子以来の中国の戦略思想は、心理、情報、認知、そして時間といった「見えにくい要素」を通じて相手を制することに力点を置く。▶︎
▶︎言い換えれば、欧米の戦略は「力をどう配置するか」を問うのに対し、中国の戦略は「時間と認知をどう操作するか」を問うのである>と指摘する垂氏が、同書でここまで言い切っているのだ。<鄧小平が採った「韜光養晦」、すなわち国力が十分に整うまで国際秩序に対する正面からの挑戦を避ける戦略は、習近平の下で明確に修正された。習近平は、もはや「待つ」段階は終わり、自国に有利な規範、制度、力の配分へと世界の形を変えていく、いわば「動く」段階に入ったと認識しているとみられる>
さらに同書には、次のようなパラグラフもある。<さらに見逃せないのが、習近平という指導者個人の政治的野心と、統治構造の変質がもたらしている現代的な課題である。……習近平の決定や指示――たとえそれが明らかに間違っていたとしても――を調整・修正する制度的な仕組みは著しく弱まっている。台湾問題を歴史的業績として解決し、米国と並ぶ、あるいは凌駕し国際秩序そのもののあり方を変える指導者として歴史に名を残したいという欲求が、外交における強硬姿勢を後押ししている可能性は否定できない>もう、お分かりいただけるはずだ。秋田記者の指摘と垂前大使の警告が見事にクロスするのだ。トランプ氏は、台湾問題で中国に全面譲歩すれば「対中外交の敗者」とみなされて「偉大な大統領」として歴史に名を残せない。一方の習近平氏は、台湾問題を歴史的業績として解決する(台湾統一)ことで歴史に名を残せる。すなわち、両氏は台湾問題で目指すベクトルが真逆であるという一点でクロスするのだ。
では、肝心要の米中対立関係の狭間に位置する日本の立ち位置について考えてみたい。現在の日米同盟関係を前提にすると、日本の立ち位置は「米国を補完する日本」という選択肢しかあり得ない。トランプ氏が2025年1月20日に第2次政権を立ち上げて、最初に試みた重要政策は米国に再び新しい製造業を興すことだった。換言するならば、米経済構造の本質は労働インプットをどこに配置するのか、という命題である。新自由主義によるサービス革命下の製造業のオートメーション化とグローバル化を通じて製造業労働需要の低下からの決別だ。平たく言えば、トランプ現象とは、行き過ぎたグローバリズムの反動であり、その修正と国家を取り戻すことである。トランプ支持層の「MAGA(米国を再び偉大に)派」が求めている製造業労働者とは、70年代の溶接工や組立工ではなく、AIプラス、ロボティクスプラスのできる製造業労働者である。すなわち、サービス業に従事する労働者を製造業に移管することにプライオリティを置いた。11月の米中間選挙の結果とは関係なく、トランプ氏主導で進められた反グローバリズムを通じて米国は、「国家」に先祖返りして製造業と軍事力を前面に押し出した20世紀初頭の帝国主義型か、国家安全保障と国際通商のバランスをとる冷戦型かのいずれかの道を歩むことになろう。
その際、日本はどうする?先述したように世界を米国と中露の3大国が分割するような事態になれば米国に付くしかない。それでも日本は、ベルギー、スウェーデン、豪州、韓国、インドネシア、アルゼンチンなどミドルパワー民主主義国と携えて、安定した米中冷戦体制の、まさに垂氏が言う「戦略的安定」(Strategic Stability)にソフトランディングすることこそが生き延びる道なのだ。日本をそこに向けて領導することが高市早苗首相に期待できるだろうか。
