「『貿易立国』湛山に学ぶ―超党派議連が会合」の見出しが付いた24行の小さな記事(日本経済新聞12月2日付朝刊)を読んで驚いた。偶然の一致ということはよくある。それにしてもだ、と思わざるを得なかった。その前週末に、筆者は石橋湛山記念財団の機関誌『自由思想』(第170号・2023年11月)を手にして同誌特集<石橋湛山没後50年に寄せて>を読み終えたところだった。
その中でも、細川護熙非自民連立政権の首相特別補佐、橋本龍太郎政権の経済企画庁長官などを歴任した田中秀征福山大学客員教授が寄稿した「石橋湛山と田中角栄―岸信介と全面対立」を興味深く読んだからだ。田中角栄元首相が首相就任直後の1972年9月22日―日中国交正常化を目指し中国を訪問した3日前―に東京・中落合の石橋邸を訪れたことは頭の片隅にあった。当時、米寿間近の湛山が角栄を車いすで玄関まで迎えに出て、2人は丁重に挨拶をかわし固い握手をしたという。田中秀征氏は次のように記述している。<私はこの握手を戦後政治史の中でも最も特筆すべき場面だと心得ている。▶︎
▶︎なぜなら一つには、石橋湛山、周恩来の固い信頼関係から考えると、周恩来は、訪中する角栄の背後に湛山が構えていると感じとれるからだ>。「日本列島改造論」や「ロッキード事件」の印象が強い田中角栄は、実は外交・安全保障について優れて反戦・平和主義志向が強い政治家だった。
冒頭の「超党派石橋湛山研究会」に戻る。同研究会共同代表と報じられた旧知の岩屋毅元防衛相(自民党)に尋ねた。早大政経学部を卒業した同氏は、政治家志望学生の登竜門とされる雄弁会に所属した。その先輩から同窓の巨星である元首相石橋湛山の全集(全16巻)を読むべしと命じられたのが、そもそも湛山との出会いだったと、岩屋氏は語る。研究会立ち上げの経緯は、ロシアの侵略によるウクライナ戦争からイスラエル・パレスチナ情勢に至る激動の国際情勢と無関係ではない。同氏は続ける。「この間ずっと軍拡潮流を押しとどめる必要があると感じていた。
そして同僚の古川禎久(前法相)とリアリズムに基づく新しい平和の枠組みづくりで一致しました。それが湛山研究のきっかけです」ほぼ同時期に平和志向が強い国民民主党の古川元久国対委員長、立憲民主党の篠原孝前幹事長代行らも賛同、6月の通常国会閉会後に約100人が蝟集した超党派議連結成となったというのだ。しかし、自民党内で岩屋氏らの立ち位置は明らかに小数派である。研究会の存続を切に願う。