この「朝日」報道で永田町や霞が関に激震が走った――。朝日新聞(10月21日朝刊)は一面トップに「自公、過半数微妙な情勢―自民、単独過半数割れの公算―衆院選情勢調査」の見出しを掲げて、次のように報じた(同紙リード)。 《現時点では、①自民党、公明党の与党は過半数(233議席)を維持できるか微妙な情勢で、自民は公示前の247議席から50議席程度減る見通し②立憲民主党は公示前の98議席から大幅増③国民民主党、れいわ新選組に勢い――などの情勢となっている》。 記事中に同紙調査の議席推計が紹介されている。自民党の「全体」:公示前247が下限184、中心値200、上限217。「選挙区」:公示前182が下限135、中心値144、上限154。「比例区」:公示前65が下限49、中心値56、上限63。公明党の「全体」:公示前32が下限17、中心値25、上限33。「選挙区」:公示前9が下限2、中心値5、上限8。「比例区」:公示前23が下限15、中心値20、上限25。
この推計では自民が200を基数に184~217議席、公明は25を基数に17~33議席となる。基軸の200と25の計225議席が「朝日」の予測と言っていい。衆院過半数233議席を8議席下回っている。だが、筆者の耳に届いた同紙が行った小選挙区はインターネット調査から、比例区は電話調査から集計した予測数字は報道された数字とやや異なる。平たく言うと、自公連立政権にとって遥かに厳しい数字だったという。自民は190を基数に180~200議席、公明が27を基数に26~28議席であり、自公合わせると基数の190と27の計217議席である。自民が現有議席から57議席減、公明は現有議席から5議席減だ。すなわち、過半数に16議席も及ばない連立与党の敗北と断じられる。
では、どのような事態が待ち受けているのか。27日が衆院選投開票日である。「たられば」に由って論考を進めたくないが、背に腹はかえられぬので自公合わせて220議席を相当数割り込んだら、たとえ事前に追加公認対応や国民民主党(玉木雄一郎代表)との連立交渉を始めていたとしても、石破茂首相(総裁)と森山裕幹事長の引責辞任は避けて通れない。翌日未明になるにしても石破、森山両氏の辞任会見は不可避である。▶︎
▶︎その場合のシナリオは①林芳正官房長官が退陣する石破首相から首相臨時代理に指名されて、同氏は3日後の10月30日に衆参院議員総会を招集し次期総裁を選出する。石破執行部は退陣するにしても恐らく首相答弁も心配なく、主要政策に通じ、敵が少なく、性格温厚な加藤勝信財務相を後継候補として担ぐ。一方、高市早苗前経済安全保障相は間違いなく出馬表明する。加藤vs高市は総裁選の対立構図の再来となる。それは、まさに石破・森山・岸田(文雄前首相)・菅(義偉副総裁)連合vs 高市・麻生(太郎最高顧問)・茂木(敏充前幹事長)・旧安倍派連合。再び自民党を二分しかねない権力抗争である。
②投開票日前の調整・折衝などあり得ないので、総選挙結果が判明後、直ちに用~意ドンで自陣営に有利な「次」を選出するための綱引きが現執行部側と高市陣営の間で繰り広げられることになる。結局、「次期首相」の外交日程(11月15~16日にペルーの首都リマでAPEC首脳会議と同18~19日にブラジルのリオデジャネイロでG20首脳会議)も控えているので事前の調整は不調に終わり、11月6日召集の特別国会での首班指名選挙に突入する。1979年10月総選挙から11月20日の第2次大平内閣発足までの「四十日抗争」の中で、同6日の首班指名選挙に同じ自民党から首相候補として大平正芳氏と福田赳夫氏の2人が名乗り上げて以来となる。この「大福戦争」は党内対立を激化させて翌年5月のハプニング解散を招来させた。
ここまで石破氏退陣を前提にしたシミュレーションを披瀝したが、実はNHKも情勢調査を実施している(10月18~20日)。なぜか未公表であるが、情報筋によると、自民215議席、公明16議席の計231議席だったとされる。過半数に2議席不足だが、公明の16議席は「朝日」調査の下限17より1議席少ないのは得心が行かない。少な過ぎるので、恐らく過半数をギリギリ確保できると、筆者が信を置く選挙予測のプロは言う。翌日21日夜9時から約2時間、東京・永田町の自民党本部で石破総裁、菅副総裁、森山幹事長、小泉進次郎選対委員長、関口昌一参院議員会長、元宿仁自民党本部事務総長が蝟集・協議した。内容は漏れて来ないが、協議後の参加者の雰囲気は非常に暗かったというのである。結果はやはり、投票箱を開けてみないと分からない。