そこは、首相官邸関係者、それも限られた人物の間で「奥」と呼ばれている。官邸5階の首相執務室。大きな執務机の背後は一面壁で、その左右両端に小さな扉がある。右側の扉を開けると、「奥」と呼ばれる約25㎡の小部屋が現れる。小ぶりのベッド、リクライニングチェア、勉強机といすがある。ここは首相執務室からしか出入りできない。高市早苗首相が小部屋に入ると、センサーが作動して首相執務室に隣接する首相秘書官室の飯田祐二政務秘書官の机上の赤色ランプが灯る。首相在室中の「奥」には、官邸では飯田政務秘書官と谷滋行事務秘書官(警察庁から出向)の2人のみ出入りが許されている。
では、高市氏の利用目的は何か。答えは喫煙である。永田町で知る者はほとんどいないが、実はヘビースモーカーで、今はJTの「メビウススーパースリム」を好む。高市氏にとっての喫煙はストレス解消だけではなく、傍らに大阪名物の豚まん「551」があれば、「奥」でのわずか30分弱が唯一無二の「至福の時」というのである。長期政権を誇った第2次安倍晋三内閣以降、健康問題を抱えていた安倍氏は疲れを覚えると「奥」のベッドで休養に努めた。岸田文雄氏も利用したが、独り沈思黙考することが多かったという。喫煙の是非はおく。
それにしても、首相の食事事情には驚く。朝食はバナナ2本と生ジュース一杯で昼食は抜くことが多い。赤坂議員宿舎時代の夕食は生協の宅配セットを常用した。最近は周囲の助言を受け、官邸で秘書官と一緒に昼食を取るようになった。夕食も簡素だ。公務でなければ夜の宴席も入れない。官邸食堂の豚肉しょうが焼きを持ち帰ることもある。かくもストイックな食生活なのだ。関節リウマチの持病があるからだ。それでも、尊敬してやまないマーガレット・サッチャー英元首相に倣ってオーソドックスエレガントに徹する高市氏は必ずハイヒールを履く。それも3.5㎝と5.5㎝を履き分ける。足の痛みは想像にかたくない。それゆえに、くだんの「奥」に入るやハイヒールを放り出してスリッパに履き替え、心地よく紫煙をくゆらす。私生活では重い役割を担う。公務を終え公邸に戻って最初にするのは、作年2月に脳梗塞を発症した夫の山本拓元衆院議員のおむつ交換だ。車いす生活となった山本氏を、首相職の傍らで介護する「ワーキングケアラー」でもある。夫との夕食後のだんらんもそこそこに午後10時前には自室にこもる。ライフスタイルは首相・総裁就任前とほぼ同じ。決裁書類はともかく、政策関連であれば各省庁作成の資料から学者などの著作・論文まで精読する。秘書官が準備する演説草稿は朱入れどころか書き直す。寝るのは翌日の未明2時ごろが常態化している。▶︎
▶︎要は、「ショートスリーパー」なのだ。その高市氏は3月19日、米ワシントンのホワイトハウスでドナルド・トランプ大統領と会談した。日米首脳会談は午前11時37分(現地時間)から冒頭の頭撮り28分間を含めて1時間33分間、オーバルルーム(大統領執務室)で行われた。当初予定されたワーキングランチはホワイトハウス内の移動が時間のロスだとトランプ氏の指示で直前に取りやめとなった。同日最後のイベント夕食会には、日米双方の経済界有力者を中心に66人が招かれた。時計の針を少々巻き戻す。2月28日(同)、アメリカとイスラエルによるイラン空爆で同国最高指導者ハメネイ師、革命防衛隊のパクプール司令官ら幹部が殺害された。トランプ政権は短期的な軍事作戦で体制転換が実現できると考えていた。一方のイランは長期戦に持ち込み、耐乏生活競争にアメリカを巻き込めれば勝機ありと読んだ。ホルムズ海峡をめぐる現下の戦況悪化は石油価格の急騰と湾岸諸国の不安定化を招き、原油・金融市場、海上輸送の先行きに不安を与え続ける。こうしてトランプ氏のいら立ちは、やがて「怒りの発電機」と化した。日本を含むホルムズ海峡の主要利用国に対し、タンカー護衛艦の派遣を強く迫る。各国の反応が鈍いとみるや罵倒し、批判が高まると撤回する。その繰り返しだ。冷静さを失ったかに見えた。
そうした中、トランプ氏と会談する高市氏には国際社会から同情の視線も注がれた。一方で、「トランプ対処」のノウハウを蓄積する好機として「調教師・高市」の手腕に期待する声も浮上した。そして、その淡い期待は現実のものとなる。高市氏が持参した「お土産」は金目のものが多かった。日米関税交渉を通じ、日本はこれまでに対米直接投資5500億ドル(約87兆円)を約束しているが、今回発表された第2弾は、日立製作所と米GEベルノバによるアラバマ州での次世代小型モジュール炉(SMR)の建設など3案件、総額730億ドル(11兆円超)に上る。
さらに、トランプ氏に強い印象を与えたとされる別の提案があった。米アラスカ州産原油の増産分を対日輸出し、日米で共同備蓄する構想である。アンカレジ東のバルディーズ港をインフラ整備したうえで、プルドーベイ油田(産出量47万バレル/日)の増産分を同港からタンカーで日本に運び、国内の石油タンクに貯蔵する。産油国との共同備蓄という枠組みだ。実際、2007年の第1次安倍政権下では、資源エネルギー庁主導で日本とサウジアラビアが沖縄県うるま市で7日分の共同備蓄を実施しており、確かな先例がある。日本にとっては供給安定性の向上、アメリカにとっては日本を拠点としたアジア市場への機動的アクセス確保となる。まさに日米ウィンウィンの構想だ。11月に中間選挙を控えるトランプ氏にとっても、ディール(取引)の「成果」として国民に喧伝できる。高市氏が厚遇されたのもうなずける。
