2021年5月 菅首相の「ワクチン一点張り打法」

王貞治氏の「一本足打法」は世界1のホームランを量産した。菅義偉首相の「ワクチン一点張り打法」は惨憺たる数字である。英オックスフォード大学の統計情報サイト「Our World in Data」によると、日本で少なくとも1回のワクチン接種を受けた人は人口の6.4%、2回接種を完了した人は2.4%(5月27日時点)。世界と比較してみよう。1回接種の上位はイスラエル63.0%、イギリス57.3%、モンゴル56.4%、カナダ54.4%、アメリカ49.6%である。2回接種を完了した人の割合が多い国はイスラエル59.2%、バーレーン44.6%、チリ41.3%、アメリカ39.7%となっている。 
 コロナ禍対策が後手後手に回り、烈風が向かい風となって肌を打つ菅首相は、ワクチン接種に自分の命運を賭けた。接種さえ進めば向かい風が追い風に変わる。東京五輪・パラリンピックも「安心、安全」に開催できる。「人の命より五輪を優先させるのか」と騒いでいた連中も日本選手のメダルラッシュが続くと押し黙る。それどころか、五輪フィーバーに取って代わるだろう。よーし、俺はやるぞ。ワクチンで一点突破全面展開だ。「1日100万回接種」「7月接種完了」の大号令をぶち上げた。ワクチン接種が本格化する5月下旬から7月末までの約70日間に3600万人の高齢者への2回接種を済ませるには、計算上1日100万回前後の接種が不可欠だからだ。ところが、机上の計算を裏切ってロジスティックが全くできていなかった。この場合のロジとは、ワクチンの調達、予約受け付け態勢、接種会場や注射打ち手・会場整理員の確保などが挙げられる。菅官邸や霞が関の所管官庁は進軍ラッパを吹くだけで、最前線(地方自治体)の実情がまるで分かっていなかった。 
 千葉県浦安市に住む筆者の友人から聞いた体験談である。高齢者向けの第1回予約受け付けは5月6日午前8時半からだった。友人は満を持してその時刻に電話をかけたが「ただ今電話が殺到してつながりません」のテープが流れるだけ。市のホームページからネット予約を試みたが「すでに1回分(6000人)は締め切られました」の表示。瞬時に終了したらしい。2回目の予約受け付けは同21日と表示される。2万人分に増えたというから、今度は予約できるだろう、と思ったが甘かった。朝から電話とネットで何回も何回も何回もトライするが、電話はちっともつながらないし、ネット予約は、市から郵送で来た予約整理番号と生年月日を書き込むと「受付できない」と表示が出て、先へ進めない。絶望的な気持ちになる。ダメ元覚悟で締め切り間際の午後5時直前に電話を入れてみた。とうとうつながる。わずかに空きが残っていた7月29日(第1回)、8月19日(第2回)を予約することができた。友人は「棚からぼた餅の気分だが、7月完了なんてとても無理。第一、73歳の俺が完了するのが8月半ばなのだから。まだ予約すらできない高齢者は多い」と、半ばホッとし、残り半分は呆れていた。人口16万人の浦安市でこの有り様だから、他の都市は推して知るべし。 菅首相はまだ一縷の望みをかけているようだが、日本は紛れもなく「ワクチン敗戦国」である。戦力の逐次投入は旧日本軍が太平洋戦争で繰り返した「必ず負ける戦法」だ。前線に投入した「大部隊」を状況に応じて撤収させるのは簡単である。だが、戦況が悪化するたびに戦力を逐次投入する戦術に勝ち目は訪れない。不明確な指示、不十分な補給、根拠なき楽観、ワクチン戦況はあの敗戦と二重写しになってくる。最近、自民党有力女性議員と食事を共に話す機会があった。女史の菅評は的確かつ辛辣だった。少し長くなるが、思い出してまとめると次のようになる。菅さんは本来、成るべくして成った総理総裁でない。正直言って、私たちが抱いていた首相候補最有力者リストに入っていなかった。安倍(晋三)さんと菅さんは明らかに違う。安倍さんは「ビジョニスト」とでも呼ぶべき個人のビジョンを持っている。外交・安保、経済、憲法改正などで、求められた時期にきちんとそれを打ち出す。▶︎

▶︎一方、菅さんはジグソーパズル型政治家で、レンガを一つひとつ積み上げるように課題をこなすことで成果を生み出す。言うならば「平時の宰相」タイプだ。コロナ禍対応で、ワクチン接種体制が遅れを取ったのは、もちろん厚生労働省の旧態依然たる組織の仕組みにも問題があるが、トップが「有事」だという認識欠如から来ていることが大きい。だから全てが後手に回る。その意味で菅氏が「有事の宰相」にふさわしいか疑問がある。ビジョニスト安倍はまず大きな方向性を示し、主要政策の具体的ゴールを掲げ「チーム安倍」に委ねる手法だった。古今東西の「有事の宰相」はそうした手法を採ってきた。菅官房長官時代から一貫して菅ウォッチャーを通している新聞記者に最近の「菅月旦」を聞いてみた。「官房長官時代と明らかに変わった。横暴になったというか、包容力がなくなり、敵か味方かをすぐ峻別する。
 例えば、日本医師会の中川俊男会長を『敵』とみなしてハナから会おうともしない。官房長官時代はそんな狭量人間ではなかった。何が彼をそうさせたのか、判然としない」。これまでも指摘したように、菅首相は一つのことに関わりだすと他のモノが見えなくなる。徹頭徹尾一つに拘泥する。今は「ワクチン一点張り打法」しか眼中にない。朝から晩まで「7月末まで完了」を考えている。首相と接する霞が関の幹部官僚も官邸関係者もおしなべてそれを否定しない。なのに、ワクチン戦況は首相の思うようにはかどらない。イライラが募って夜もぐっすり寝ることができない日が続いているようだ。その兆候を国会審議で推察できた。5月10日、参院予算委の蓮舫立憲民主党代表代行との質疑で、菅首相は心ここにあらずの「上の空」状態だった。瞬時、蓮舫氏の質問の中身が思い出せなかったこともある。心療内科医ならこういう症状を「適応障害」と診断するかもしれない。強いストレスから抑うつ気分、不安、怒り、焦りなどの心身症状が現れる病気だ。
 ワクチン一点張り打法は、五輪開催のための手段である。ゴールはあくまでも東京オリパラだ。だが「手段」はいたる所で目詰まりが起き、機能してくれない。5月末まで10都道府県で延長されていた緊急事態宣言は、9都道府県で6月20日まで再延長されることが決まった。感染の高止まりが続く。五輪の主催者である国際オリンピック委員会(IОC)の面々は、日本のワクチン戦線の体たらくにしびれを切らしたのか、次第に過激な発言へとエスカレートする。コーツ副会長は「緊急事態宣言下でも開催」と明言した。芥川賞作家の平野啓一郎氏は「日本人や日本人の命に対する蔑視があるんじゃないか」とツイート、ネット空間は炎上する。 
 極めつけは27日のIОC最古参委員、パウンド氏の「アルマゲドン(人類滅亡)以外はやる。中止は基本的に選択肢としてない」。この暴言、当然大炎上となったが、一番洒落ていた投稿は日本で活動する米人タレント、デーブ・スペクター氏のものだろう。米ハリウッド映画「アルマゲドン」に主演したブルース・ウィリスを引き合いに出したうえ、しかも「ウィリス」を「ウィルス」に変えて「ブルース・ウィルスのドラえもん、なんとかして!」とツイートした。ソフトバンクのCMにブルース・ウィリスがドラえもん役で登場するのもかけている。ドラえもんはポケットから出す多種多様な秘密の道具で、降りかかった災難を一時的に解決することができる。デーブの投稿に「ウィルス・ドラえもんに大きな風呂敷で新国立競技場を覆ってもらい、元の姿に戻してほしい」というつぶやきがあった。東京五輪・パラリンピックは、菅首相や小池百合子都知事、IОCの「何が何でもやる」という固い決意をよそに、ネット空間では映画や漫画の領域でおちゃらけの材料にされている。 

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