2021年2月 菅首相の顔とムンクの「叫び」

「接待」とは、元々仏教に関わる言葉である。布施の一種で、道の脇に白湯や茶を用意して行き交う人に振舞うことだった。時を経て現代では意味が変容する。「飲ませる、食わせる、威張らせる、抱かせる、握らせる」の「5せる」となる。 
 菅義偉首相の長男らによる総務省幹部接待問題は、安倍晋三前政権の「モリ・カケ」以上に深刻な事態となってきた。総務省は22日、放送事業会社「東北新社」に勤める首相長男から接待を受けた職員は計12人延べ38回に上る、と国会に報告した。飲食代、手土産代、タクシー代の総額は60万8307円。内閣広報官の山田真貴子氏は総務省総務審議官だった19年11月、1人当たりの飲食代7万4203円の接待を東北新社社長や首相長男から受けていた。和牛ステーキ屋での一晩の飲み食い7.5万円は、中流核家族の1か月の食費に匹敵する。12人中9人は国家公務員倫理規程違反で減給などの懲戒処分を受けた。山田氏は特別職の国家公務員であり総務省の処分対象ではないが、加藤信勝官房長官が「倫理法違反になると思う」と語り、月額給与の6割に相当する70万5000円を自主返納した。
 放送行政をつかさどる総務省の役人は女子アナがお好みらしく、接待の主舞台となった東京・人形町の高級料亭「玄冶店 濱田家」は民放キー局女子アナの実家である。国家公務員倫理規程とは、久しぶりに聞く言葉だ。1998年、多くの大蔵(現財務)官僚が金融機関から過剰な接待を受けていた事実が発覚する。俗にいう「ノーパンシャブシャブ」事件である。新宿・歌舞伎町で中国人が経営する「ノーパンシャブシャブ」店が接待の舞台となった。どういう店か、若い読者諸兄のために説明するのは憚れる。逞しく想像していただきたい。大蔵省汚職事件は官僚ら7人が収賄容疑で逮捕・起訴され、3人の自殺者を出した。事件を受けて2000年に国家公務員倫理法が施行され、それに基づいて国家公務員倫理規程がつくられた。大蔵省は財務と金融機能に分離され、名称も財務省と変わった。当時を思い起こすと、役人と会食するとき、役人は自分の食事代について必ず自腹を切っていた。
 襟を正そう、という意識がピリピリ伝わってきた。あれから20年経った。どうして人間はこんなに忘れやすいのか。農水省幹部への鶏卵業者接待を含め完全にタガが緩んでしまった。官官接待とは、地方公務員が便宜をはかってもらうため、中央省庁の役人を公費で接待することをいう。今回はズバリ「菅官接待」である。総務省は、菅首相が副大臣、大臣を務めた直轄支配の「天領」である。「菅案件」の携帯電話料金値下げも自分の強い意向を忖度してくれる総務省の所管事項だったから実現できた。倫理法違反に問われた4人の局長級幹部(その後2人は更迭)は、いずれも菅氏の知遇を得て出世階段をのぼってきた人物だ。「菅首相の息子さんの誘いを断わったら、後でどんな仕返しがあるか…」。
 幹部官僚は本音を明かさないだろうが、心に恐怖と忖度が渦巻いていたのは容易に想像がつく。人事による霞が関支配を権力の源泉としてきた菅手法の弊害をもろに浴びた形だ。「菅ファミリー」と「菅天領」のドロドロの癒着は、今後の国会運営への影響だけにとどまらず、政権危機にもつながる地雷原政局になっている。 
 発端は、またしても「文春」砲である。3日発売の「週刊文春」が首相長男、正剛氏が現職の総務省幹部らを接待漬けにしていたことを暴露した。20年10月、東京・人形町の高級料亭で、映像制作事業を手掛ける東北新社の二宮清隆社長や正剛氏らが、総務省で次期事務次官の呼び声高く、携帯値下げのキー・パーソンとされる谷脇康彦総務審議官を接待、食事代を負担したほか、手土産やタクシーチケットを渡した。正剛氏の肩書は、同社の趣味・エンタメコミュニティ統括部長。東北新社は都内に本社を置き、基幹事業の一つが衛星放送事業だ。言うまでもなく、総務省は電波法に基づく放送の許認可権を握っている。野党は色めきだった。4日の衆院予算委で取り上げ、当初は言を左右していた首相も長男とこの件について電話で話したことを認めた。違法行為かどうかについては「総務省でしっかり対応する」と述べるにとどめた。「長男はコネ入社したのでは」の追及には「息子とは別人格。民間人で家庭もありプライバシーもある」と色をなして反論した。 ▶︎

▶︎現在もロン毛の正剛氏は学生時代からミュージシャンとして活動し、明治学院大学卒業後も定職に就かなかった。行く末を気にかけていた父親は06年の総務相就任時に26歳の正剛氏を政務秘書官に起用、その後、東北新社に入社した。
 菅首相は、懇意にしていた東北新社創業者の植村伴次郎氏やその長男(いずれも故人)から総額500万円の献金を受け、会食したことも17日の国会答弁で認めている。 20年秋から冬にかけて正剛氏らは、谷脇、吉田眞人両総務審議官のほかに、秋本芳徳情報流通行政局長、湯本博信官房審議官の4人をそれぞれ招待した。野党側の要求で秋本、湯本両氏が参考人として招致される。事実上の接待会食だったことを認めたものの「東北新社の事業が話題に上った記憶はない」と釈明した。「この答弁待ってました」とばかり、文春砲は二の矢を放つ。正剛氏らが秋本氏らを接待した12月10日の高級料亭での音声記録を公開した。会話の中に「BS」「衛星」などの言葉が聞き取れる。音声公開で事態は一変する。野党は秋本氏らを攻め立てるとともに、国会答弁で「事業に関わる話は一切ない」と述べた武田良太総務相の責任問題にまで羽根を広げようとしている。接待疑惑が贈収賄事件へと発展するのかどうか、筆者はつまびらかでない。
 ただ、つくづく菅首相にはツキがないと思う。コロナ感染防止の切り札とされるワクチン接種が17日にスタートし、6府県の緊急事態宣言が先行解除された。日経平均株価も3万円台を回復した(26日は米国債利回り急上昇を受け一時大幅下落)。最新の各種世論調査では、内閣支持率が朝日新聞社(13~14日実施)の34%など横ばいで底打ち感が出てきた。世間を騒がした森喜朗氏の女性蔑視発言も何とか落着した。これでコロナ禍が収束に向かい、東京五輪・パラリンピック開催に目途が立ったら「つなぎ政権」どころか「本格政権」もあわよくば、と色気が出るところだった。ところが、ようやく自信と余裕が戻って来た時、ファミリーから火種の噴射である。窮地に陥ってもツキに恵まれていた前首相は体調不良で途中降板した。後を継いだリリーフ投手の出だしは良かった。しかしその後、全員野球を無視した唯我独尊的ひとり相撲で打たれ出した。ツキにも見放された。
 「菅首相とかけて何と解く」。作業衣と解く。そのココロは「ツナギにスガる」なんていう駄ジャレも耳にした。ツナギの投手はこのまま9回まで持つのかどうか。チームメートが失策を重ね、かなり怪しくなってきた。「菅官接待」の国会審議や収拾がこじれると、21年度の年度内成立が覚束なくなる。加えてコロナ禍対応のハードルは高い。ワクチン接種率がG7中最低だ。ワクチンは感染防止の切り札のみならず、東京五輪・パラリンピック開催への「特効薬」にも、と期待される。接種率向上は時間との闘いだ。聖火リレー開始前の3月下旬までに、IOCとの協議で開催可否や観客有無を果たして決められるのか。4月25日投開票の衆参補欠選挙は自民党の3戦2敗1不戦敗がほぼ決まっている。今のところ、自民党内に不穏な動きはないが、首相としてはこれを引き金に政局にならないことを祈るばかりだろう。永田町ウォッチャーには、最速で予算成立後に首相交代と予測する人もいる。3補選前に「顔」を変えて、次期衆院選と来夏の参院選に臨む、というわけだ。筆者は同意していない。ただ、衆院の任期満了前の途中交代は「あり」と予想する。待ち受ける変動要因は多いものの、首相の座に固執しない菅首相の性格から類推して、自らの手で解散を打ち大幅議席減を招くことだけは選択しないとみる。中継ぎ投手の交代で、次は「選挙管理内閣」となる。後継首相候補に河野太郎規制改革相・ワクチン担当相、茂木敏充外相、野田聖子幹事長代理の3人を有力視している。だが、野田氏についてはいくら夫婦別人格といっても、最近夫の「過去」が名誉棄損裁判で明らかになり、候補リストから外れたと言わざるを得ない。本人も不本意だろう。しかめっ面が多くなった最近の菅首相を絵柄で描くなら、四面楚歌が聞こえる沈みゆく小舟の中で仁王立ちしているが、心なしか顔がムンクの「叫び」に似てきた。