2021年11月 巡航速度・水平飛行の岸田首相

「オミクロン・ショック」で世界中が騒然としている。コロナ感染者が激減しホッと一息ついたところで、また世界経済は冷水を浴びせられた。♪どこまで続く泥濘ぞ、とやるせない気持ちに襲われる。
 「26日のニューヨーク株式市場は、ダウ平均の下げ幅が一時1000ドルを超えた(29日の市場はバイデン米大統領がロックダウンを再導入しないと言明したため少し戻した)。世界的感染拡大の懸念から、アジアや欧州市場でも軒並み株価が下落し、世界同時株安となっている。このところの世情はワクチン接種が進んでコロナ禍が一服、経済は回復基調に転じていた。米国では物価上昇が続き、インフレ懸念も頭をもたげていた。
 川端康成の「雪国」の冒頭をもじれば「コロナ禍の長いトンネルを抜けるとインフレだった。暮らしの底が赤から青に点滅し出した」矢先のウイルス妖怪変化だ。国際通過基金(IMF)は世界経済の成長率を2021年は5.9%、22年は4.9%と予測、先進国は来年中にコロナ禍前の成長軌道に戻ると見ていた。日本も感染者数の減少で21年10~12月期以降は景気回復の足取りが強まるとの期待感が強かった。衆院選で事実上圧勝した岸田文雄首相は、過去最大の55.7兆円(事業規模78.9兆円)の経済対策を決め、経済界に対して3%超の賃上げを要請した。春の到来を予感したのも束の間、南アフリカで新変異種が見つかった。欧米では「第6波」が懸念されている。ロックダウンが導入されれば、楽観的シナリオは見直しを迫られる。航空機などの燃料需要が落ち込むとの見方が拡がり、原油価格は急落した。投資家は株式や原油先物などの高リスク資産から、安全性の高い投資先に資金を移している。国際会議にも影響が出た。世界貿易機関(WTО)はスイス・ジュネーブで30日開催予定だった閣僚会議を無期限延期した。スイス政府がオミクロン株の確認された地域からの入国を制限したためだ。水際で封じ込めろ、と日本政府も外国人の入国を全面禁止した。
 だが人やモノの移動を完全に遮断すると、現代生活は成り立たなくなる。ウイルスの対策は詰まるところ「ハンマー&ダンス」しか思い浮かばない。肉眼では見えないウイルスとの戦いは先が見通せず、恐れおののきながら推移を見守るしかない。国内政治に目を転じる。ちょっと旧聞になるが、政界通から第2次岸田内閣の閣僚人事で興味深い裏話を聞いた。岸田氏の性格がよく出ているエピソードである。岸田氏から安倍晋三元首相に電話があったのは、衆院選開票から3日後だった。岸田「外相は誰がいいと思いますか」安倍「うち(清話会)であれば、西村康稔(前経済財政相)か世耕弘成(自民党参院幹事長)だね」とのやり取りだったが、すでに岸田氏は側近の林芳正氏と決めていた。その直後に、岸田氏は麻生太郎副総裁にも電話して同じように聞いている。安倍氏も麻生氏も新聞報道にあった「林芳正外相」には大反対だった。表向きの理由は、日中友好議連会長だった林氏が外相だと、対中国にも対米国にも誤ったメッセージを送ることになりかねないからだが、裏の真意は二人とも林氏とケミストリーが合わず「いやな奴」と思っている。安倍氏も麻生氏も翌日「表向きの理由」だけを岸田氏に電話で伝え、林外相反対を意思表示している。このエピソードのキモは、すでに自分で決めた人事でも、自民党のキーパーソンに「誰がいいですか」とお伺いを立てる岸田氏の「ぬるさ」である。
 19世紀の英国首相、ベンジャミン・ディズレーリは言っている。「性格は変わらない。見解は変えることができる。性格はただ発達させるのみである」。人を不愉快にさせまいと配慮するあまり形式だけでも手続きを踏む岸田氏の性格は、国のトップリーダーになっても変わらない。人事が上手いと評判だった自民党長老は「政権を立ち上げた総理・総裁にとって最初の人事が最も重要だ。人事は全て自分一人で決めなければならない。それを一度でも他人に相談してしまうと、その後に何か起こった時、相談した相手と相談した事に縛られてしまい、物事が思い通りに進まなくなる」と喝破していた。首相官邸の「チーム岸田」が機能し、離陸から巡航速度の水平飛行に入った政権だが、トップの忖度過剰は自分で掘った落とし穴に足を滑らせる危うさもはらんでいる。 ▶︎

▶︎もう一つ、ディズレーリの箴言に倣うと、岸田氏にちょっと気になる「見解の変化」がある。投開票日翌日の1日、岸田氏は記者会見で「党是である憲法改正に向け、精力的に取り組んでいく。与野党の枠を超え、憲法改正の発議に必要な国会の3分の2以上の賛成を得られるよう議論を進める」と力んでみせた。改憲勢力の日本維新の会、国民民主党が議席増になったことを踏まえているのは自明だ。岸田氏はかつて「憲法改正は考えない。これが私たちの立場ではないか」(15年10月5日岸田派研修会)との見解を示していたが、あっさり変えたのか。過去の改憲論議を振り返ると、国会での憲法論議が本格化するのは、リベラル派の首相が旗振り役になった場合である。改憲に前のめりだったタカ派の安倍首相当時、国会の憲法審査会はほとんど開かれなかった。政治の世界には、こういう「アンビバレンス」が棲みついている。岸田氏は自民党リベラル派の牙城とされる宏池会(岸田派)の領袖でもある。本来改憲には慎重なはず、といぶかる人が多い。来夏の参院選で与党が勝利すれば、岸田政権の3年の任期は保証される。自民党内保守派の支持取り付けを狙ったパフォーマンスなのだろうか。
 それとも、リーダーの主張とは反対の事態が否応なく進行する政治的アンビバレンスの力学が働きだしたのだろうか。永田町には、掴みどころのないモヤっとした雰囲気が流れている。立憲民主党の代表戦が30日投開票される。衆院選に敗北した枝野幸男前代表の辞任で4人が立候補したが、ちっとも盛り上がらない。自民党総裁選に比べ、メディアの露出量が「差別」と思えるほど少ない。衆院選のキーワードの一つは野党共闘だったが、不発に終わった。接戦区の多くで与党候補に競り負けた。比例代表での立民の総得票数は、前回の立民・希望両党を合計した2075万票から1150万票に激減している。早稲田大の日野愛郎教授(投票行動)が行った意識調査によると、自公連立政権を評価しない有権者のうち、比例代表の投票先を立民と回答した割合は2割未満にとどまった。野党第1党が政権批判票を取り込めていない。誤解を恐れずに言うなら、政権交代が起こることを否定する考えはない。第1に、前政権で蓄積した腐敗や失政は、政権交代によって落とし前をつけることができる。政治が緊張する。第2に、権力は一極集中や長期化で必ず腐敗する。仮に、政権交代で新政権が前政権より能力が劣ったとしても、前政権の垢や塵は一旦きれいに掃除できる。それだけでも政権交代の意義がある。前の野党が与党になってツマラン政治をすれば、また次の選挙で政権交代させればいいだけの話である。立民敗北の理由は色々言われている。野党共闘路線が機能しなかった。枝野氏のアピール不足。野党は「安倍・菅」長期政権で何が実現し、何ができなかったかを争点化できず、バラマキ合戦の波に飲み込まれた。直前の自民党総裁選で「疑似政権交代」が行われた。自民党は、立民と共産が「閣外協力」で合意したことを逆手に取った。麻生氏は「立憲共産党」と呼称し、ネガティブ・キャンペーンが奏功した。いずれも一理あろう。
 だが、そういう些末な事より、レーニンが言っているように「自分の病気をあからさまに名指し、容赦ない診断を下し、その治療法を見つけ出すだけの勇気がないような政党は、尊敬に値しないだろう」が的を射ているような気がする。1990年代後半から2000年代前半に生まれた若者は「Z世代」と呼ばれる。生まれた時からインターネット環境が当たり前のように整い、その中で生きてきた連中だ。年齢的には20代から30代前半である。世論調査に基づいて遠藤晶久・早稲田大准教授が分析したところ、Z世代の政治センスはこれまでの「常識」を覆すものだった。「保守」「革新」「右」「左」のラベルが混線し、もっとも「革新=現状を変える」で「リベラル」な党は維新だと思っている。逆に左派=護憲は「現状を変えない」と主張するから「保守」とみなされる。つまり、Z世代の「新常識」では、維新は「革新」で共産は「保守」であり、選択肢は自民党と無党派の二択になってしまっている、という。仮にこの分析が正しければ、新代表の立民は若者たちの民意を反映した政策を掲げる「将来の与党」と思われる存在に生まれ変わることだ。