2021年12月 想定外に強かな岸田首相

 俳人・高浜虚子に「マスクして我と汝(なんじ)でありしかな」の句がある。弟子の山口青邨の送別会で詠んだものだ。「私は私の道を行く。君は君の道を行けばいい」とでも言っているようだ。マスクは彼我を隔てる距離感の象徴なのだろう。岸田文雄首相は国会が閉じた後、アベノマスク在庫を年度内に廃棄すると表明した。「桜を見る会」についても、衆院予算委で「自分が主催して開くことはない」と断言した。安倍晋三政権の愚策「アベノマスク」や「負の遺産」を清算しようとする岸田流「断捨離」だ。どこからも批判が出ないどころか「いいね」の連弾が続いている。
 会計検査院によると、アベノマスクの調達契約に442億6338万円(3億1811万枚分)、汚れ付着や髪の毛混入などの発覚による検品業務委託に7億75万円、在庫の配送・保管費用に6億96万円(今年3月まで)かかっている。さらに在庫の「不良品率15%」を判明させた検品費用20億9000万円、処分費用6000万円、来年3月までの保管費に9億円ほどが加わり、総事業費は〆て486億円に達する。壮大なる無駄な事業だった。筆者の元にも届いたが、小さすぎて使えない。ゴミ箱行きとなった。気配り上手の岸田氏は廃棄表明前に安倍氏へ連絡している。二人がどういう会話をしたか分からないが、コケ扱いされた安倍氏は面白くなかったはずだ。SNS上でちょっとした騒ぎが起きた。安倍氏の公式ツイッターが21日夜、岸田氏をディスる(SNS語で否定する、侮辱する、の意。英語の接頭辞disを動詞化した)一般人のツイートに、賛意を示す「いいね」を付けた。安倍氏が「いいね」を付けたのは「岸田の動きの悪さは宮沢喜一や鈴木善幸とダブります」というツイート。内容からマスコミ関係者の投稿だろう。翌22日昼時点で「いいね」は取り消されていたが、ツイッター上では「岸田さんのこと嫌いなのかな」「陰湿すぎる」「マスク年度内廃棄が気に障った?」「内心ブチギレか」「イライラしてたのね晋三」というコメントが相次いだ。宮沢、鈴木両氏とも宏池会出身である。過去の宰相と重ね合わせて「動きが悪い」と岸田氏を揶揄するツイートに、首相経験者が「いいね」を打つとはよほどのことだ。安倍事務所職員が親分の気持ちを忖度して「いいね」を押したとも考えられるが、事務所は沈黙を通している。安倍氏は12年1月にツイッターアカウントを開設した。「いいね」はこれまでに計33回押された。自民党議員や台湾の蔡英文総統、高須クリニックの高須克弥院長、産経ニュースなどの投稿に対してだ。自民党総裁選期間中の21年9月、森まさこ元法相が「岸田文雄候補をよろしくお願い申し上げます」と呼び掛ける投稿に、一般ユーザーのリプライ「申しわけありませんが、私は……」にも「いいね」を打っている。
 岸田政権発足から「ハネムーン」終了の100日目は年明け早々に迎える。最強のキングメーカー然として振る舞う安倍氏の「忠犬ハチ公」と見られていた岸田氏だが、どっこい展開は違った。安倍氏の言いなりにならないことが、内閣支持率の上昇につながった。皮肉にもこの成功体験が本格政権へと向かう自信となっている。直近のメディア11社世論調査の詳細は割愛するが、各社の調査結果を加重平均すると、支持57.15%、不支持25.6%となる。前政権末期の数字と比べると、出来過ぎの成績だ。政治家としての岸田氏は「彼は昔の彼ならず」へ脱皮している。2年前「総理総裁の芽は潰えた」と烙印を押された男は、艱難辛苦を経て一皮も二皮もむけたようだ。単なる「良い人」「聞く人」から「聞き流せる」人となり、必要とあらば裏切ることもできる人に化けた。大病をしないと健康のありがたみは分からない。信念や想念は逆境において鍛えられるという。聖書の文句ではないが「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」ことに岸田氏は気付いたようだ。少し理屈っぽくなった。 岸田氏の政権運営は菅氏と明らかに違う。▶︎

▶︎自民党の世耕弘成参院幹事長が10月の臨時国会代表質問で、開成高校の野球部員だった「8番、セカンド岸田君」を紹介した。「3番でも4番でもピッチャーでもサードでもなく、目立たないけれども誰かが担わなくてはならないチームワークの要。黙々と練習を重ね、チームに貢献していた。練習が終わってから最後までグランドに残って整備する姿でチームメイトのゆるぎない信頼を得ていった」。野球選手には、大谷翔平のようなスーパースターもいれば、縁の下でチームを支えるだけで終わる岸田選手もいる。前政権は菅義偉氏が「4番、ピッチャー」のワンマンチームだった。ピッチャーが打たれたら無惨な負け方となる。岸田官邸は「全員野球」である。チーム岸田では、依然として岸田氏が監督兼「8番、セカンド」のような存在を担っている。3、4、5番のクリーンナップは「秋葉剛男国家安全保障局長、嶋田隆政務担当首相秘書官、宇波弘貴事務担当首相秘書官」が務めている。外交・安保は秋葉氏の領分、内政の捌きは嶋田氏、霞が関との事前調整から業界団体との交渉、自民党要路との連携・折衝は宇波氏の役割だ。岸田氏が掲げる「新しい資本主義」をまとめた木原誠二氏はエリート財務官僚から政界入りし、宏池会のホープとして官房副長官にドラフト指名された。
 ただ、事あるごとに「こっちの顔に泥をぬるな」と事務方を威圧するので人心が離れつつある、との評もある。いずれにせよ、チーム岸田は各自が役割に応じて機能しており「2期6年の長期政権になるかもしれない」という声も出るほどだ。どうやら安倍氏のイライラが昂じるのは、岸田政権がうまく行き過ぎていることにあるようだ。温厚な性格の「忠犬」と半ばナメてかかっていたが、飼い主を噛むとまでは行かなくても相当程度言うことを聞かなくなった。安倍氏周辺によると、一番頭に来ていたのが先の総選挙の比例代表候補の名簿順位。当時の甘利明幹事長主導で決め、岸田氏が容認した順位リストに当たり散らしたそうだ。
 次いで、子飼いの萩生田光一氏や高市早苗氏らの処遇を含めた岸田流人事である。清話会(安倍派)所属の松野博一官房長官に「派閥を代表して首相と面談し、なぜこういう人事になったか、説明を受けろ」と命じた。命を受けた松野氏が総理執務室に入ると、その場になぜか甘利氏もいる。松野氏は驚いて何も言うことができず、そのままスゴスゴと引き上げたことに、また烈火のごとく怒った。まるで男の更年期障害のような症状との指摘もある。岸田氏からすれば「安倍氏に裏切られた」の思いが強い。「次は君だ」と囁かれて臥薪嘗胆してきたが、総裁選で高市氏を担ぎ総力戦でぶつけてきた。政治家の口約束ほど不確かなものはない、と身に染みた。岸田政権になってから自民党の派閥力学にも変化が起きている。岸田氏を支える主流陣営は麻生太郎副総裁と茂木敏充幹事長だ。23日午前、岸田・麻生・茂木の3氏は自民党本部で会談した。10月の衆院選後4回目となる「AKMトライアングル会談」である。最大派閥を率いる安倍氏の立場は複雑だ。表舞台では「全力で岸田政権を支える」と口にするが、人事のシコリや高市氏の再入会をめぐる派内のゴタゴタもあり、心穏やかならぬ、だろう。主流派の隊列から離れたくないと、敢えて「バンドワゴン」に同乗しているようにも見える。
 23日夜、浅草の「鷹匠壽」で安倍、麻生、茂木の3氏が会食した。同じ時刻、赤坂の料亭「外松」では二階派事務総長の武田良太氏がセットした会食が開かれた。出席したのは菅氏、森山裕前国対委員長、石破茂元幹事長だ。こちらが党内「非主流派」という立ち位置になろう。「AKMプラス不満タラタラのA」対「2FプラスIMS」の勢力図のなかで、領袖の誰もが間合いの取り方に苦慮している。「大宏池会」構想を主導する麻生氏に対する警戒心から、安倍氏と麻生氏は以前のような固いスクラムの同盟ではないという。「安倍離れ」が進む岸田氏に、安倍氏の気配りはぎこちなく映る。岸田政権の背後でキングメーカーになりたかった安倍氏が忖度し、岸田氏が自然体で振る舞っている図柄は、以前誰か想像しただろうか。事実、岸田氏は暮れも押し詰まった26日夜、経済安全保障政策を担う閣僚3人に加えて甘利氏と会食している。岸田氏はかなり強かである。