2003年2月に公開されたドイツ映画「グッバイ・レーニン」は、東西ドイツ統合前後の庶民の身に起きた悲喜劇を描き、ドイツ歴代興行記録を塗りかえた。さわりを紹介しよう。東ドイツ首都の東ベルリンに暮らす主人公のアレックスと母親が主人公だ。父が西ドイツに単独亡命してその反動からか、母は東ドイツの国家体制に傾倒している。東ドイツ建国40周年記念日の夜、アレックスは家族に内緒で反体制デモに参加、警官ともみ合っていた。それを偶然通りかかった母が目撃、ショックで心臓発作を起こし昏睡状態に陥る。二度と目覚めないと思われたが、8カ月後病院で奇跡的に目を覚ます。その時すでに、ホーネッカー議長は辞任に追い込まれ、ベルリンの壁は崩壊し、東ドイツから社会主義体制は消え去っていた。「もう一度ショックを受ければ命の保証はない」と医師から宣告されるアレックスは母の命を守るため自宅に引き取る。姉や恋人ら周囲の協力を半ば強要しながら、東ドイツの社会主義体制は何一つ変わっていないかのようにあらん限りの細工と演技を続ける。映画マニアの友人の協力でテレビに流すフェイクニュースまで製作する、といった念の入れようだ……。
この映画の時代背景のころ、ウラジーミル・プーチン大統領は旧ソ連国家保安委員会(KGB)の諜報員として東ドイツのドレスデンにいた。KGB職員になるには共産党員が条件だ。プーチン氏は就職前に入党する。東ドイツの秘密警察である国家保安省(シュタージ)職員の身分証明書を持ち、NATО情報などを集める諜報活動に従事していた、とプーチン自身が語っている。1985年から90年まで東ドイツに滞在し、東西ドイツ統一後は故郷のレニングラード(現サンクトペテルブルク)に戻る。その後92年にサンクトペテルブルク副市長として政界入りすることになる。なぜプーチン氏は、旧ソ連邦から袂を分かった主権国家に対し見下すような軍事戦略を採るのだろう。
現代史研究家の保阪正康氏は、そのポイントとして①KGB出身者が持っている国家主義者としての歪んだ自意識②東西冷戦時のソ連邦の威信と国力へのノスタルジー③近現代社会の民主社会に対する抜きがたい不信感――の3点を挙げる。そのうえで次のように続ける(要旨)。「この3点がプーチンの基本的性格だ。旧ソ連のエリート階層なら大体持っている。少年期からKGBの職員になりたいと念願していた頭脳明晰な少年は、長じて実際にその職を得た。それはひと言で言えばスパイ、あるいは情報工作員の仕事で、国に貢献することこそ人生の最も理想とする生き方であった。KGBの職員はソ連社会では『頭がいい』『語学に精通』『有能なビジネスマン風』『権力的』などの評価と一体である」(『サンデー毎日』3月20日号)。
奇しくも、最近話をした外務省幹部も似たような見解を披歴した。概要以下の通り。「プーチンは2000年に大統領に就いてから何時か必ずウクライナ制圧をやってやるという秘めた思いを持ち続けていた。その原点は、彼がKGB職員として東独に駐在していた時、ベルリンの壁が崩壊し自らが屈辱的な体験をしただけでなく、旧ソ連邦の優等生だった東独があっけなく瓦解したのを目の当たりにして、統治の難しさ、強権政治の必要性を学んだことにあった。加えて、ソ連邦と共産党支配ももろくも崩れ去った。その理由を米国とNATО(北大西洋条約機構)のせいにしている。民主主義と自由に名を借りた米国の強大な軍事力を背景とした帝国主義、その力を後ろ盾としたNATОの東方拡大志向だ。これを阻止しない限り、大ロシア復活などあり得ない。プーチンは猫をかぶってチャンスをずっと窺ってきた」――。
筆者の知る限り欧米の主要国首脳で、プーチン氏がウクライナに軍事侵攻すると確信を持って判断していた人は皆無である。もちろん日本政府も中国指導部も、だ。従って、今回の事態をプーチン氏の性格や経歴で説き起こそうとするのは、すべて後付けの理屈である。逆に言うと、それぐらいプーチン氏は人を騙すことに長けていたことになる。ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』に描かれている英国情報部に送り込まれたソ連の二重スパイのような「演技力」である。猫の縫いぐるみを剥がすと中から虎が出てきたというわけだ。多くの軍事アナリストは、首都キエフが陥落すればロシアは政治的解決に動き、親ロシアの傀儡政権を樹立して軍事行動を停止すると予想していた。米国主導のNATО陣営に屈辱を味わわせる。それがプーチン氏の狙いなのだろうと見ていた。 ▶︎
▶︎外交専門誌『ロシア・イン・グローバル・アフェアーズ』のフョードル・ルキアノフ編集長によれば「プーチンはソ連崩壊後の東欧の現状を決して受け入れていない」と断言する。旧ソ連の構成国でNATОに加盟した国は多い。だがウクライナはまだNATОの一員ではない。これ以上反ロシアが増えるのは困る。そこでプーチン氏は勝負に出た。元エストニア大統領のトーマス・ヘンドリック・イルベス氏は「プーチンが欲しいのはベラルーシのような傀儡政権だ。北のベラルーシに加えて南のウクライナも思いのままに操れるようになれば“皇帝”プーチンとNATО陣営の力関係が変わると思っている」と分析する。ウクライナ侵攻初日の2月24日、プーチン氏はテレビ演説で言い放つ。「ウクライナに干渉しようとする者は心得ておけ。ロシアは直ちに反撃し、かつて諸君が経験したことのないほどの結果をもたらすだろう」。
ソ連は1991年に崩壊し、国内は大混乱に陥った。それはプーチン氏にとって心的外傷を引きずるほどの悲劇だった。プーチン氏はかつて、ソ連の悲惨な末路について「20世紀最大の破滅的な地政学的事件だった」と語っている。平たく言えば、2000万人のソ連国民の命を奪った第2次世界大戦よりひどい出来事だったという認識だ。2000年代前半に米誌『ニューズウイーク』のモスクワ支局長だったヒル・パウエル氏は「ソ連崩壊後にあの国で起きた不幸な事態に対するプーチンの怒りは、わたしたちの想像以上に多くのロシア国民が共有している。経済は犯罪者に乗っ取られ、国家財政が破綻に向かう様子を目の当たりにした。政府は軍人にさえ給与を払えなかった」と報告している。2月21日、プーチン氏は国民に向け55分という異例に長い演説を行い、恨みつらみを吐き出している。「ウクライナはよその国ではない。ウクライナ人とロシア人は兄弟であり、一心同体だった」。同じスラブ民族であったよしみを回顧し、連打して強調する。それがソ連の崩壊によって母なるロシアから無理やり引き裂かれた、と訴えかける。この論法がロシア国民受けするプーチン流歴史解釈である。もとより筆者は軍事専門家ではない。ウクライナの戦況や、今後戦いがどう収れんするのか、語る資格がない。報じられていることをつまみ食いして素人なりに想像するしかない。数日間でギブ・アップすると見られていたキエフは持ちこたえている。
それどころか、逆にロシア軍を押し返している、という報道に変わった。制圧された地域でウクライナが奪還したところもあるという。ロシア軍は、親露系住民が多い東部地域に兵力を移動させている、という報道が増えている。こういうのだけ拾い上げると「プーチンの戦争」は思い通りに運んでいない、と思えてくる。計画の不備、場当たり的な指揮系統、兵士の低い士気と延びきった兵站・補給ルートで深刻な問題を抱えているようだ。プーチン氏は政権掌握後の22年間に、チェチェン、ジョージア(グルジア)、シリア、クリミアで戦争を仕掛け、電撃作戦で勝利してきた。侵攻から2日~3カ月で制圧している。それが可能だったのは、侵攻の初期段階で想像を絶する残虐行為で徹底的に弾圧し、相手の軍隊と国民に恐怖感を植え付けて降伏させるというのが常套手段だったというのである。専門家でない筆者に実態は分からない。ただ、ウクライナはロシアの侵攻からすでに1カ月を超えたから、これは明らかにこれまでの「プーチンの戦争」とは違う。片を付けるのに長くかかり過ぎている。
今後、ウクライナ東部地域を中心にスペイン内戦のように戦いが泥沼化する、という予想もある。米欧日の金融・経済制裁でモノ不足がじわり浸透してきたロシアで“プーチン離れ”が始まっている、とのニュースも出始めた。とまれ、地下壕で息を潜めて耐え忍ぶウクライナ国民の辛苦に思いを馳せると、破れかぶれになったプーチン氏が生物・化学兵器や戦術核兵器を使用するのだけは止めてくれ、とただ祈るしかない。否、言わずもがなだが、門外漢がせいぜい出来ることは、停戦と兵力撤収がすぐにやってくることを八百万の神々に向かって祈るしかないのだ。