2022年4月 ウクライナ映画で覚えた「既視感」 

 映画好きの友人からウクライナ関連映画を観るのが最近のトレンドだと教えられた。それに煽られたわけではないが「バンデラス ウクライナの英雄」「ウクライナ・クライシス」「みかんの丘」の3本観た。前の2作は2014年のロシアによるクリミア半島併合直後、東部ドネツク州でウクライナ政府軍と親ロシア派との争いを描いている。タイトルからB級戦争映画を連想したが、なかなかどうして、現在のウクライナ侵攻につながるストーリーで勉強させてもらった。大雑把に言うと「土地とすればウクライナだから国に従って貰うぞ」的な北西部中心のウクライナイズムと、「嫌なこった。ロシアに依存するぞ」という東南部の分離主義派の戦いだ。ソ連解体時になるべくしてなったいがみ合いが今に続く。ウクライナ軍に潜んだスパイを追いつめるサスペンスや親ロシア派組織の傭兵として戦う主人公の幼馴染との人間関係、父は東南派、息子は北西派と分かれて戦う事情など映画的スパイスも効いていた。3作目はウクライナ製作ではなく、エストニア、ジョージア(グルジア)など数カ国の合作で、自然と人間の営みを対比させ戦争の意味や不条理を静かに問いかける作品だ。肺腑にずしんと来る重量感があった。「バンデラス ウクライナの英雄」で語られるセリフに“既視感”を覚えた。ウクライナ軍兵士と親ロシア派住民とで交わされるやり取りである。住民「君は何人だ?」兵士「ウクライナ人」住民「ウクライナ人なんて存在しない。ベラルーシ人もバルト人もいない」兵士「なら、何なの?」住民「みんな同じ民族だ。ロシア人、つまりスラブ人さ。アメリカとNATОが俺たちを引き裂いている。奴らこそ真の敵だ」兵士「デタラメだね」住民「洗脳されて気付いていないだけだ。俺たちは同じスラブ人。見捨てはしない。ちゃんと治してやる。最後には感謝して貢献を望むようになる」。
 前回の小欄でも触れたが、ウラジーミル・プーチン大統領はウクライナ侵攻直前、国民に向けた長広舌で「ウクライナはよその国ではない。ウクライナ人とロシア人は兄弟であり、一心同体だった」と言った。その兄弟国家がソ連崩壊で無理やり引き裂かれた、と訴えかけ「8年間だ。私たちは終わりのない長い8年間、平和的・政治的手段で事態解決のために手を尽くしてきた。すべて無駄だった」と、苛立ち露わに語っている。ロシア人好みの歴史観は上から下まで「金太郎飴」である。ロシアの旧ソ連邦構成国への侵略戦争の理屈は、全て「みんなスラブ人だ。なんでよそへ逃げるの」の1点で焦点が合う。
 某地方紙の1面コラムが《約90年前、旧ソ連のウクライナで大飢饉があった。3年前に製作された伝記映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」で知った》と書いていた。だが、これは正確でない。事実は、自然災害としての大飢饉ではなく、スターリンが重工業化を重視し、その資金獲得のためにウクライナの穀物を収奪した人工的飢饉だった。なぜなら、1932年から33年にかけて、当時のルーマニア領及びポーランド領だったウクライナの地域では飢饉は起きていなかった。ウクライナの国民的作家、アンドレイ・クルコフは「飢饉は人工的に作り出されたものだった」と『ウクライナ日記』(集英社)で綴っている。ウクライナのソ連(ロシア)への不信・憎悪の底流にはこの「作られた飢饉」があることも理解しておきたい。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』新訳で高い評価を得たロシア文化・文学者、亀山郁夫・元東京外国語大学長(現名古屋外国語大学長)のロシア人観に目からうろこが落ちる思いだった。取材記者の「21世紀のロシアになぜプーチンのような政治家が現れたのか」の問いに次のように答えている(要旨)。長くなるが示唆に富む見方なのでお付き合い願いたい。《プーチン崇拝を理解するには、まずロシア人のメンタリティーを理解する必要がある。ロシア人は基本的に政治、つまり世俗的権力に無関心だ。というより、むしろ神と大地に忠実なのだ。ロシアの哲学者、ベルジャーエフは「終末の民」と言い、ロシアの文化史家、ベイドレは「成熟を知らない民だ」と言う。言い換えると、ゼロか1かの2進法が彼らの歴史のリズムなのだ。そうした彼らの精神性を称して「千年の奴隷」と言い切ったのが、20世紀を代表するウクライナ生まれのユダヤ人作家、ワシーリー・グロスマンだ。因みに、歴代の為政者が長く「奴隷」を手なずけるための最大の手段としたのがウォッカだ。100グラムのウォッカと生命の重さが等しくなるのが戦争。あれだけのすばらしい文学、芸術を産みながら、ロシアはどうしてこうも人命の価値が軽いのか。▶︎

▶︎それは、ベルジャーエフの「終末の民」が示すように、彼らが深い運命論に支配されているからだ。酷薄な自然と長い不幸の歴史によって培われた世界観だ。なりゆきまかせが、ロシア精神の最大の悲劇なのだ。私は最近、19世紀の詩人チュッチェフの言葉を頻繁に思い出す。「知もてロシアは解しえず 並みの尺では測りえぬ」。西欧的な知ではロシア精神の根本にあるものは分からない。ドストエフスキーは、絶対的な君主制のもとで、自分たちはどこよりも精神的な自由を享受できるといった独自のロシア人観を披歴した。ロシア人の魂の核心に潜む正体とはマゾヒズム、別な言葉で言えば受動性、極端な言い方をすれば苦痛への愛だ。これが、恐ろしく厄介なのだ》(『毎日新聞』4月22日夕刊)。
 長く、深い蓄積から放出されるこのレベルの碩学の見解にはうならされる。小欄は「高み」から「世俗」に下りる。政権発足から半年を経た岸田文雄内閣の支持率が堅調である。メディア各社の4月調査結果は発足時のご祝儀相場を上回るところが目立つ。直近の『日経新聞』・テレビ東京の世論調査(4月22~24日実施)は、支持64%(前回より3ポイント増)、不支持27%(同横ばい)だ。いつもは低く出る『朝日新聞』調査の支持率は発足以来最高の55%まで上昇している。コロナ禍、物価高、悪い円安の三重苦の中で、支持率の跳ね上がり要因はロシアのウクライナ侵攻への断固たる姿勢であることは論をまたない。『毎日新聞』の調査では、物価が上がってもロシアに対する経済制裁を強化すべきか、との問いに「もっと強化すべき」が70%にも達している。外務省は今年の外交青書で、北方領土が「ロシアに不法占拠されている」と19年ぶりに明記した。日露間の平和条約交渉は「展望を語れる状況にない」とケツをまくっている。こういう強い表現は、外交青書では長く用いられなかった。執筆者を総取っ替えしたような感じである。ロシアの軍事侵攻では、人類が過去1世紀で築き上げてきた国際秩序の根幹を揺るがす暴挙だと非難、力による一方的な現状変更をいかなる地域でも許してはならない、とありったけの厳しいワーディングを用いている。翻って想起するのは、安倍晋三元首相によるロシアへの“要請”だ。プーチン氏と計27回会談し「ウラジーミル」「シンゾー」とファーストネームで呼び合うことを誇示していた。2019年、ウラジオストクで開催されたロシア主催の「東方経済フォーラム」では「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている。ゴールまで2人の力で駆け抜けよう」と呼びかけた。安倍氏はプーチン氏の「正体」を見抜いていたのだろうか。
 因みに、プーチン氏が「シンゾー」と言っていたかははっきりしない。両氏の共同記者会見(2017年など)をチェックすると、安倍氏は「ウラジーミル」を連呼するが、プーチン氏は「安倍さん」「安倍首相」で終始している。その安倍氏がウクライナ侵攻後、文字・映像・ネットメディアで露出が急増している。政治家とタレントは露出量が減ると落ち目になる、という方程式に抗うパフォーマンスなのか。テストで赤点を取った子どもが恥ずかしさを隠すため母親に「何かお手伝いしようか」と申し出る構図にも見える。自らのツイッターには「ロシアによるウクライナの侵攻は、戦後私たちがつくってきた国際秩序に対する深刻な挑戦であり、断じて許すわけにはいきません」とつぶやいた。「ウラジーミルと同じ未来」を見ていた安倍氏が反省もなく手のひらを返したことに「あんたが言うな」「ご都合主義だ」「そんならプーチンを説得してくれ」の声が噴出する。矛先を変えて「日本が防衛予算を増やさないとなったら笑いものになる」と力むと「だれから笑われるの?」「あなた自身が世界の笑いもの」との呆れ声が連打される。つくづく安倍氏には、例の「アンガーマネジメント」をご推奨したい。感情が高ぶり、呼吸が浅くなったら6秒間深呼吸して待ってみる。日本語にすれば、怒りをうまく抑える方法である。安倍政権当時、主要官庁幹部だった人物は筆者に「プーチンは、北方領土返還と平和条約締結に意欲を持つ安倍さんを相手に極東シベリア地域でのLNG(液化天然ガス)開発に日本の支援を得ようとあの手この手で引き付けようとした。自戒を込めて言うが、まんまとプーチンの仕掛けた罠にはまってしまった」と打ち明けた。ロシア大統領府のペスコフ報道官は4月22日「交渉の継続は極めて難しい。4つの島は全てロシアの固有の領土だ」とちゃぶ台をひっくり返した。島は返ってこないのに3000億円の経済協力が残る。外交とは駆け引きの積み重ねであるが、KGB諜報員の経験があるプーチン氏は、おそらくあの「外交官ジョーク」を知っていたのだろう。「外交官がYESと言ったら、それはMAYBEのことである。外交官がMAYBEと言ったら、それはNОのことである。外交官がNОと言ったら、それはもう外交官でない」――。外交の「闇」は安倍氏が思うよりずっと奥深いのだ。