ピンチはチャンス、の格言がある。窮地をテコに組織が大きく変革したケースは枚挙にいとまがない。英語にも似た表現がある。「Tоugh times bring оppоrtunity」(直訳すると、厳しい時間は機会をもたらす)。逆転の発想は世界共通の「隠しワザ」である。経営破綻した日本航空を稲盛和夫氏が乗り込んで蘇らせた。
作家のヘミングウェイは「人間の価値は、敗北に直面していかに振る舞うかにかかっている」と言う。野球選手のイチローも「壁があるときこそチャンスだと思っている」の至言を残す。自民党派閥の巨額裏金事件に端を発した「政治とカネ」の展開も「ピンチはチャンス」を思い起こさせる。内閣支持率暴落で瀕死状態にあった岸田文雄首相は乾坤一擲、捨て身の「独断専行」に打って出た。池田勇人元首相の創設から67年の歴史を持つ党内で最も古い名門派閥「宏池会」解散という“大博打”である。「俺たちが変わるという姿を見せないとダメなのだ。若手議員たちは『自民党は何も変わらない』と地元で叩かれ続けている。どうやって次の選挙を戦うかも見えていない」。岸田氏は、珍しく声を荒げて周辺に解散理由を言い放った。故福田赳夫元首相が立ち上げて45年の歴史を持つ安倍派、そして二階派、森山派、谷垣グループが後に続く。岸田氏を支えてきた麻生派、茂木派の領袖は「政治団体を解散しない」と抵抗しているが、世間の風当たりは強い。岸田氏の賭けが、吉と出るか、凶と出るか、まだ分からない。ただ「岸田・麻生・茂木の3頭」による政権運営は崩壊状態にある。党内の力学が一変するだけでなく、自民党政治の根幹を成してきた派閥構図は、ピンチを迎えたがゆえに様変わりしようとしている。東京地検特捜部が大陣容で取り組んだ裏金事件は1月19日、3人の国会議員と5人の現・元派閥会計責任者らを「立件」して事実上捜査を終えた。安倍派「5人衆」ら大物議員は、共謀の立証が難しいなどとして立件に至らなかった。特捜部が手掛ける事件としては、チンケな“落とし前”だった。この立件に先立ち、岸田氏は18日夜、自らが派閥会長を務めてきた宏池会(岸田派)の解散を表明した。独りで決断したという。もっとも、最側近の木原誠二党幹事長代理の助言を仰いでいたとの情報も漏れ伝わるが、ともあれ愚図と言われてきた岸田氏には珍しい一世一代の「決めポーズ」を見せた。歌舞伎でいうところの「見得(みえ)」を切った。「政治とカネ」問題の処理は率先垂範、フライング気味で飛び出した方が勝ち、の読みがあったのかもしれない。捜査の標的になっていた安倍、二階派を巻き込み、更には党全体まで「拡散」出来れば願ったり叶ったり。「死なばもろとも」の戦略だった。派閥を離脱した人(岸田氏)が、派閥解散など言える資格があるのか、という冷やかし気味の「正論」もある。岸田氏は、裏金問題が発覚した昨年12月7日、「首相の任であるうちは派閥を離れるのが適切な対応と決断した」と語り、変わって根本匠元厚労相がトップ(会長代行)に就いている。宏池会は総会も開かずに、派を抜けたはずの岸田氏が派閥幹部を首相公邸に呼びつけて解散を伝えた。派閥離脱は見せかけと認めたのも同然、という論法である。
まあ、そんなに目くじらを立てる問題でもあるまい。それを言うなら、国会議員を辞めた森喜朗元首相がいまだに清和会(安倍派)に影響力を行使したり、麻生太郎党副総裁に同派幹部処分の反対を申し入れているのはどうなるのか。「名目」と「実質」の違いで済ましてもいいのではないか。18日深夜、岸田氏の携帯電話が鳴った。麻生氏からだった。「いつもいろんなことで相談してくるのに、一番大事な時にうんともすんとも言ってこないのはどういうことなんだ」。麻生氏はのっけからけんか腰だ。「おれは派閥やめないから。茂木もやめないと思う」と続けた。岸田氏は「そりゃそうです。私たちは私たちの考えで決めましたから」と、抗弁した。翌19日朝、岸田氏はぶら下がり会見で「他派閥のありようは、申し上げる立場にない」と発言。その後、党本部で麻生氏と会談し「事前に連絡しなくて申し訳ありません」と謝っている。麻生氏の立腹に怖気づいたのか。どっこい、岸田氏は並外れた「鈍感力」の持ち主だ。一見、陳謝しているように見せかけながら、心の中は一度決めたことをまい進する気持ちにブレがない。「ブレ、ブレ続けることにブレない岸田」と揶揄されるが、今回の一連のパフォーマンスを見る限り、ブレ、ブレは岸田流フェンイト・モーションなのかと思ってしまう。▶︎
▶︎麻生氏が派閥解散に抵抗する底流を探ってみたい。麻生派(志公会)の前身は、河野洋平氏を担ぎ1999年に発足した大勇会(河野グループ)である。自民党下野当時の党総裁として苦労した河野氏こそ首相に就くべきだと、会長に加藤紘一元幹事長を充てる宏池会と袂を分かった。発足当時のメンバーは、総裁選出馬推薦枠(20人)に足りない15人。「冷や飯軍団」のレッテルが貼られた。メディアが「派」ではなく「グループ」の呼称を使った初めてケースだ。創設メンバーの一人によれば「義理と人情とやせ我慢」が合言葉だった。麻生氏は「軍団なんておこがましい。せいぜい部隊だ」とまぜっ返していた。それから四半世紀が過ぎ、党の第2派閥(56人)まで人数を増やした。「部隊」から「軍団」に成長した。軍団を背景に、岸田氏のご意見番として副総裁に就任する。「派閥を苦労して育ててきたのに、なんで解散しなけりゃならんのだ」の思いが強い。岸田氏に対しても、「政治とカネ」でバッシングを受けるとすぐポピュリズムに走る。当面の危機打開に事前相談もなく一気に派閥解消に向かったやり口は許せない、と怒りは募るばかりだ。21日夜、麻生氏は岸田氏の呼びかけで会食する。党の政治刷新本部(本部長・岸田首相)に麻生派からも牧島かれん氏ら数人を出している。それを念頭に「何の為に会議を構えたのか。構えた本人(首相)が分からなくしている。議員たちが国会開会前の貴重な時間を使って協力する意味がない」と不快感を露わにした。関係修復は難しい。その政治刷新本部は25日、「中間とりまとめ」を発表した。派閥については全廃まで踏み込まず、「カネ・人事」から決別することで「本来の政策集団に生まれ変わらなければならない」とした。それを踏まえ①資金集めパーティーの開催禁止②議員に配る「氷代」「餅代」の禁止③派閥事務所閉鎖を前提に党本部で活動④閣僚人事などでの推薦名簿提出取り止め――を明記した。
とりまとめを受け、麻生氏は「政策集団としての役目を更に活発にしていかなければならない」(27日の福岡県内での講演)と語った。安倍派解散時、故福田赳夫首相の孫、福田達夫元総務会長は「新しいガバナンスの形で新しい集団を作っていくことが大事だ」と反応した。ネット上では「トンチンカン男」「人はそれを偽装解散という」などと炎上する。茂木派は、櫛の歯が欠けたように退会者が相次いでいる。いつか来た道である。リクルート事件や東京佐川急便事件で政治不信が高まり、自民党が総選挙で敗北して下野した1994年11月、時の河野洋平総裁は党改革の目玉として「派閥解散」を決めた。各派閥は事務所を閉鎖して看板を降ろした。だが、すぐに各派閥とも名称を替え「政策集団」の名目で元通りに復活する。のど元過ぎれば熱さ忘れる。今回もほとぼりが過ぎ、世間が忘れた頃に派閥は復活するだろう。安倍派の正式名称は「清和政策研究会」である。筆者は「政策集団」なるものの将来に悲観的にならざるを得ない。
そもそも、政策集団を名乗ったグループがこれまで政策を提示したことが1回でもあったか。寡聞にして聞いたことがない。人間は群れる動物である。3人いれば、2対1で派閥が出来る。4人いれば、2対2か3対1に分かれる。大分・高崎山のサル社会はボスを中心に幾つかの群れを形成し、群れは一緒に行動する。ボス同士による覇権争いもある。政界も似たようなものだ。派閥の人材育成面は否定しないが、集団の中に入っていると、ボスが面倒をみてくれてカネ・ポストが転がり込んでくる。無派閥というのは、ボスが不明な「無派閥」という名称の1派閥である。野党にも派閥がある。派閥がないのは、民主集中制(上部機関の決定に全党員は無条件に従う)を行動規範とする共産党だけだろう。社会という集団の中で生きる人間は群れることを宿命づけられている。岸田歌舞伎見せ場の「大見得」は客席の反応がイマイチだった。大向こうから「岸田屋!」の掛け声がかからなかった。世論調査による内閣支持率は、朝日23%、読売24%、毎日21%、日経27%と前回とほぼ横ばいだ。1~2ポイントの違いは誤差の範囲内である。ただ、毎日だけは8カ月ぶりに前回より5P上昇の「異変」が生じた。岸田氏が捨て身で敢行した派閥解散は信頼回復まで結びついていない。下げ止まった要因は、株価上昇など経済面が寄与しているのではないか。忘れた頃に繰り返される「政治とカネ」問題は、派閥解消のお題目を唱えるだけでは根本解決にはならない。派閥に規制の網をかぶせることは何もしないよりずっといい。でも一時しのぎの目くらまし対応に過ぎない、と見透かされている。もっと根源的なところ、例えば「金のかからない政治」実現にどう切り込んでいくか。政治活動は金がかかり過ぎる。選挙は特に金が出ていく。26日から始まった国会で中身の濃い論戦を期待したいが、与野党の駆け引きが先行する予感がして、筆者はここでも悲観的にならざるを得ない。