2023年6月「プリゴジンの乱」は何だったのか?

内閣支持率が下り坂に入った国内政治は気になるところである。当初はこのテーマで書くつもりでいた。だが、ドラマの筋書きで言えばあちらの方が断然面白い。一報を聞いたとき「ロシア版2・26事件か」と思った。その後の展開も目まぐるしい。やじ馬根性丸出しで言うと、顛末がどうなるのか、ミステリー小説を読むようなワクワク感があった。
 ロシアのオリガルヒ(新興財閥)の一人、エフゲニー・プリゴジン率いる民間軍事会社「ワグネル」が23日、武装蜂起を宣言した後、南部ロストフ州の州都ロストフナドヌーにある南部軍管区司令部を占拠、更にモスクワへ向け進軍を始めた。プーチン露大統領は「国家反逆の裏切りだ」とテレビ演説し、厳罰に処する姿勢を見せた。ワグネル部隊はボロネジ州やリペツク州を 通って600キロ北上してもロシア正規軍の抵抗をほとんど受けなかった。首都まで200キロまで迫った地点で、進軍がピタリと止まる。プーチンの盟友、ベラルーシのルカシェンコ大統領が仲介に入っていた。プリゴジンは部隊を駐屯地に戻すことに合意、プーチンも首謀者を国家反逆罪に問わない決定を下した。プリゴジンはベラルーシに亡命した。たった1日で終結した武装蜂起は「プリゴジンの乱」と呼ばれる。謎めいた結末だが、日が経つとともに全容がぼんやり見えてきた。いったんはプーチンを心胆寒からしめた一連の出来事が予定調和の芝居か、と思ったこともあった。スターリンは自らの権力を脅かす人物を見極めるため、小規模な反乱を許容した。機に乗じて権力を奪取しようとした者はもちろん容赦なく抹殺された。欧米のジャーナリストらは、最近のロシアでは「真実は存在せず、何でも起こり得る」と記す。プーチンが20年以上に渡って展開してきた偽情報による統治の産物らしい。
 プリゴジンの乱は何が目的だったのか?何が達成されたのか?この「そもそも」が筆者には皆目分からなかった。「反乱」「クーデター未遂」「暴動」「デモのバリエーション」…言葉探しはどれもストンと落ちない。ワグネルの決起と首都に向けた抗戦なし進軍は、プリゴジンのベラルーシでの隠居という何とも「平和な取引」で幕を降ろすのだろうか。我々の常識では、想定外のもう一つ外のサプライズである。こんなハチャメチャな芝居の筋書きはどんな脚本家にも思いつかないだろう。日本のメディアでこの乱を最も熱心かつトリビアルなことまで報じたのは朝日新聞ではないか。なぜだか分からない。おそらく筆者と同じようにやじ馬根性旺盛な輩が編集幹部にいるのだろう。こんな具合だ。《ロシア・チェチェン共和国のカディロフ首長はプリゴジンの反乱について「サンクトペテルブルク当局が彼の娘に望んだ土地を与えなかったことで、怒りが頂点に達した」とSNSに投稿し、私利私欲が原因だったと批判した。カディロフは「プリゴジンにビジネスの野心を捨て、国家の重要な仕事と混同しないように説得したが、相次ぐ取引の失敗が根深い怒りを引き起こした」と指摘した》(25日付朝日新聞デジタル)《プリゴジンの複数の偽造パスポートがサンクトペテルブルクのホテルで見つかった。ロシア系独立メディア「メドゥーザ」が伝えた。偽造パスポートの用途ははっきりしていない。ロシア当局がプリコジンの事務所とみられるホテルを捜索中に見つかった。いずれもプリゴジンの写真が貼られ「ドミトリー・ゲイラー」「ドミトリー・ボブロフ」「オレグ・セメノフ」といった複数の名義があったという。このうち「ドミトリー・ゲイラー」については、プーチンの長女が関係する病院の顧客リストに「スーパーVIP」として載っていた。プリゴジンが偽名を使いながら長年通院していたとみられるといい、ワグネル戦闘員もこの病院で治療を受けていたとされる》(26日付同)《プリゴジンとみられる人物が29日、サンクトペテルブルクのヘリポートで目撃されたと、地元メディアが写真付きで報じた。プリゴジンはベラルーシに向かったとみられていた。マスク姿のため明確には確認できないが、ヘリポートは同氏が関係するホテル近くにあり、男性を乗せて飛び立ったヘリも関連会社の所有だという。ルカシェンコは27日、プリゴジンはベラルーシにいると認めている》(30日付同) ワグネルの創設者、プリゴジンとは何者なのか。
 ソ連時代、強盗、詐欺、売春斡旋などで12年の懲役刑を宣告され、9年間服役する。AP通信が「プーチンのシェフ(料理人)」の呼称を使ってから注目を集めるようになった。地元のサンクトペテルブルクで継父のホットドッグ屋を継ぎ、1997年にネヴァ川にパリ・セーヌ川の船上レストランをマネして船上レストラン「ニューアイランド」を開設してから彼の出世が始まる。プーチンのお気に入りレストランとなり、訪露した01年のシラク仏大統領、02年ブッシュ米大統領との会食場となる。プリゴジン自ら腕を振るって料理を提供した。森喜朗首相(当時)もプーチンに伴われ訪れたという。彼が設立した給食会社はクレムリン、学校、軍への給食事業を請け負い、巨万の富を築く。14年に傭兵組織「ワグネル」を創設する。当初はウクライナのドンバス戦争に派兵する。その後、シリア、リビアなどアフリカ各地でプーチンが政治的、法的責任を直接負うことなくロシアの軍事的目標を推進するための「道具」となる。▶︎

▶︎22年7月、ワグネルがウクライナで戦っていることが公式に発表される。バフムトなど激戦地で正規軍より果敢に戦い、重要な役割を果たす。ロシアメディアから称賛されるにつれ、プリゴジンのプーチン政権批判も激しくなる。ショイグ国防相やロシア軍を「弱虫」呼ばわり、ラブロフ外相を「無能」と批判した。今年のロシア戦勝記念日には、弾薬不足に不満を述べ「幸せなクソじじい」と言い放った。明らかにプーチンを指している。プーチンがなぜこれまでプリゴジンを排除しなかったのか、その理由は過去100年に渡るロシア政治の謎の一つとされる。
 ロシアでは、民間軍事会社は違法とされる。だがプーチンはワグネルを黙認し、絶大な権限を与えた。自らの権力基盤を維持するため、正規軍に軍事力を独占させない思惑があったという解説があるが、どうなのだろう。むしろ、国外での裏工作をプリゴジンに担わせ、自分に火の粉が降りかかるのを避けるという説の方に得心が行く。傭兵は世界最古の職業だ。顧客は国家、社員の派遣先は戦場だ。ワグネルは刑務所で社員を勧誘し、半年間の「軍役」を終えれば、囚人の身から解放される。戦闘員5万人のうち8割の4万人は刑務所収監者だ。刑務所がそっくり軍隊組織に引っ越したようだものだ。「ニューズウィーク日本版」は、ロシアの刑務所を支配する暗黙の「4つの階級」がワグネルでも支配する、と伝えている。4つの階級はそれぞれ「盗賊」「男」「雄ヤギ」「雄鶏」の隠語で呼ばれ、最上位権力者の盗賊は殺人請負業者など職業的犯罪者。男は問題を起こさず刑期を終えたい者で盗賊に忠誠を尽くす。盗賊と男は刑務官の命令には服従せず自分たちの規則で動く。雄ヤギは刑務官と協力しながら受刑者の秩序を尊重する。煙草や麻薬など闇取引物品を調達する役目を担う。雄鶏は最下層で、トイレ掃除や下着の洗濯など誰もが敬遠する仕事をさせられる。刑務所の延長線になった軍部隊では、戦友同士が連帯を結ぶことも、死者に敬意を示すこともなくなったという。生き残った受刑者が故郷へ戻った後、刑務所文化を拡散して社会全般にも悪影響を与えている、と指摘する。5万人とされるワグネル軍団は相次ぐ激戦で現在1万人程度まで減ったという見方が有力だ。モスクワを目指し進軍したワグネル戦闘員は2万人とされるが、実態はその半数以下だったと報じられている。一時消息不明だったプリゴジンは武装蜂起停止後に通信アプリ「テレグラム」に音声メッセージを投稿する。反乱の理由について「ロシア軍からミサイル攻撃を受け、戦闘員約30人が殺された。これが引き金になった」と述べた。ワグネルに対しロシア国防省は契約を結ぶよう命じ、プリゴジンは拒む。「(ロシア国防省の)陰謀の結果、(ワグネルは)7月1日に無くなることになっていた」と語る。進軍の停止は仲介役のベラルーシ大統領との協議で決まり、プリゴジンは大統領に「ワグネルの活動継続のため解決策を見つけるべきだ」と提案した。これら発言の裏付けとなるベラルーシ大統領との交渉内容をルカシェンコ本人が27日、国営通信などで開陳している。ロイター電から発言のキモを拾ってみる。プリゴジンはウクライナで多くの部下を失ったことに動揺していた。ロシア南部の州都に到着した時は「半狂乱状態」だった。プリゴジンはロシア軍指導部の腐敗と無能さに激怒し、自分の部下が攻撃された事件の復讐をしたいと叫ぶ。「我々は正義を望む。彼らは我々の首を絞めようとしている。我々はモスクワに行く」と、通常の会話より遥かに多い汚い罵り言葉を発していた。これに対し、ルカシェンコは「(モスクワに向かう)道半ばで、虫けらのように潰されるだけだ」と説得。
 更にプリゴジンが要求していたショイグ国防相とゲラシモフ参謀総長の引き渡しについて「誰も両者を引き渡すことはない」と拒み、モスクワは守られ、反乱が続けばロシアは混乱と悲しみ包まれる、と蜂起を止めるよう数時間かけて説得した。ロイター電にはないが、ルカシェンコは説得の中で「悪い平和はどんな戦争よりも優れている」と伝えたという。(ルカシェンコよ、ウクライナに侵攻したプーチンに向かって同じ言葉を吐いて欲しかったなあ)。一方、プーチンはプリゴジンに何度電話をかけても応じないことに苛立ち、ルカシェンコに助けを求めてきたという。ルカシェンコは反乱軍の鎮圧を「急がないよう」プーチンを説得した。プリゴジン、ルカシェンコの発言内容はほぼ平仄が合っている。おそらくこの辺りが真相に近いのだろう。ロシア独立系メディアは、プリゴジンがプーチン政権と交渉する際「信頼できる第三者」を加えるように求めたためルカシェンコが加わった、と報じている。「プリゴジンの乱」の決算書を覗いてみたい。
 プリゴジンは一時の激情に駆られたものの最終的に生き延びることを選んだ。ワグネル戦闘員はプーチンから①ベラルーシに行く②国防省と契約を結ぶ③除隊――の選択肢が示されたという。ベラルーシの国内に駐屯地も提供された。進軍の道中、国民から拍手喝采を浴びたことも考慮すると、取り敢えず決算は「黒字」の帳尻だろう。プーチンはどうか。飼い犬に手を噛まれただけでは済まない。ロシアで国家反逆罪は終身刑が科せられる。だから国民は口にチャックし、窮屈に暮らしてきた。ところが、今やロシアで法律は無力となった。どんな重罪でも、政治的配慮が優先して裁かれない。その日の朝に裏切り者と言われても、夜には許され不起訴になることがある。プーチンの軍事アウトソーシング(外注)政策は完全に破綻した。ロシア社会や軍には今回の措置に不満が蓄積しているはずだ。プーチン王朝崩壊の時期を早める「大赤字決算」と言わざるを得ない。ただ、顔に泥を塗られたプーチンは密かにプリゴジン暗殺指令を出した、という独立系メディアの報道も目にした。ドラマの第2幕はあるのか。